俳句と“からだ” 195 季語と心情
季語は季節の物事および季節感を表す言葉である。俳句に詠み込まれることで
「作者と読者との共通理解の媒介」(尾形仂)となる。
原爆図中口あくわれも口あく寒
加藤楸邨
掲句は句集『まぼろしの鹿』(1967年刊)に収められている。戦後8年を経た昭和28年(1953年)の冬、広島を訪れ原爆図と対峙して詠まれた。「原爆図」と前書きがあり、「原爆図唖々と口あく寒鴉」など26句が記されている。「原爆図」は丸木位里・俊夫妻の筆による「原爆の図」で原爆投下直後の阿鼻叫喚を描いた作品群だ。多くの人が爆死、破壊された市街で生き残った人々は炎に包まれ爛れた皮膚で生死の狭間を藻掻いた。原爆投下は人類が人類に対して犯した最大級の愚行、蛮行である。筆を尽くして描かれた一連の「原爆の図」を前に圧倒され立ち尽くす楸邨が想像できる。
この句は「原爆図中口あく」「われも口あく」「寒」と三つに分けて読むべきだろう。原爆図の中の人々は口をあいている。戦火に逃げ惑う人々の飢渇と苦悶、怨念と憤怒や絶望などが口をあくことで象徴されている。無音の叫びである。絵の前に立ち尽くす楸邨自身も作中に引き込まれ、描かれた人々と同じ驚愕や怒り、悲しみと無力感から同様に口をあくしかない。ふと我に返った楸邨を冬の寒気が包んでいるが、それだけではなく作者の心も寒々と凍えている。
「寒」は冬の季語である。時候で言えば二十四節気の小寒と大寒。一月初旬から節分までとなる。また「寒し」ならば冬の冷え冷えとした体感となる。しかし掲句の「寒」は現実の寒さを表しているだけではない。平井照敏編『新歳時記』には「心理的な寒さ、心の寒さ、時代の寒さまでを含めていう」とある。この一語で尾形のいう「作者と読者との共通理解の媒介」が成立している。「原爆の図」を見たことがなくともその描画や楸邨の思いが伝わってくる。これが季語「寒」の作用だ。
しかし季語に関しては異なる意見もある。季語は季節や季物、季節感を表す言葉、言い換えると純粋季語であるべきではないか、季語に心情を代弁させることは季語への冒涜ではないか、その方向へ走ると季語が手垢に塗れて純粋性を失うのではないかという主張だ。
これは難しい問題だが、いずれにせよ季語は科学用語ではなく、長い年月、人と共に育まれた人文用語である。季語を活かすか季語に委ねるか。そこに俳人の有り様が示されるのだろう。
広島や卵食ふ時口ひらく 西東三鬼