俳句とからだ 184 岩淵喜代子著『二冊の「鹿火屋」』
連載 俳句と“からだ” 184
三島広志(愛知県)
岩淵喜代子著『二冊の「鹿火屋」』
原石鼎(1886~1951)は35歳のとき結社誌「鹿火屋」を発行する。譲渡された数誌を併合して誌名を変更したものだ。誌名は1914年の作「淋しさに又銅鑼打つや鹿火屋守」に因る。37歳で関東大震災(1923)に遭遇し以後65歳で亡くなるまで神経衰弱に苦しむ。発病後は妻のコウ子が結社の維持に努め、1974年、養子の原裕に継承、現在も原家が主宰している。
表題の書は俳句結社「鹿火屋」で原裕に師事し、現在は同人誌「ににん」代表の岩淵喜代子が著したものだ。岩淵は石鼎と神との関わりを研究している最中、少なくとも二冊の石鼎の為だけに発行された「鹿火屋」を入手する。神との関わりを調べていた理由は石鼎出身地島根では幼い頃から出雲神楽に馴染んでいると『石鼎窟夜話』に書かれていることと、石鼎が精神を病む過程で神を身近に感じていたのではないかと考えられることからである。
では何故石鼎のためだけに「鹿火屋」が発行されたのか。そこにメスを入れたのがこの本である。
「頂上や殊に野菊の吹かれ居り」は石鼎にとって特別の句である。作品舞台の鳥見山が偶然神武天皇の斎場であったからだ。この霊畤こそ石鼎のスピリチュアルな体質を示している。
関東大震災のあと精神を病んだ石鼎は治療による薬物中毒に苦しむようになり、1940年(昭和15年)から41年にかけて精神病院に入院する。入院中、岩淵によると「天上界を行き来していたような」句を詠んでいるという。
また、偶然、新居の地名が倭建命が弟橘媛命を偲ぶ「吾妻」であったので一層神を身近に感じたのであろう。石鼎の創作意欲が極めて旺盛であったという。「鹿火屋」編集部はその量に困惑して石鼎用の「鹿火屋」を印刷したのではないかと推察される。何故なら現存が確認できているのは1941年(昭和16年)10月号と翌42年1月号であるが10月号の表紙裏には手書きで「この雑誌は病中の石鼎先生にみせるために特別に造本したもので、一般に頒布したものとはちがうものである 一男記」と書かれているからだ。一男は口語俳句の市川一男だ。
量的問題だけでは無い。岩淵は石鼎用「鹿火屋」には「外国語の詩が載り、自らの記名の上に神の称号を与えている。当時の軍事国家では忌々しい事態なのである」と推測している。43年(昭和18年)には軍による俳誌の統合が始まっている。おそらく石鼎と「鹿火屋」を統制から守るためと、同時に石鼎の矜恃を保つための二冊の「鹿火屋」なのだ。
一人の天才とそれを取り巻く人々。更にそこに忍び寄る軍靴の音。こうした状況がたったひとりの為に本を作って魂を救済していたのだ。震災や戦争。これらは常に人類が背後に背負っている問題である。二冊の「鹿火屋」は自然と戦争に翻弄された記録としても貴重である。