俳句とからだ 172号 近藤愛句集『遠山桜』
連載俳句と“からだ” 172
愛知 三島広志
近藤愛句集『遠山桜』
近藤愛は1973年生まれ。中学三年生から毎日新聞「女のしんぶん《楽句塾》」で黒田杏子選を端緒に俳句と関わってきた。
現代史読みかへす日も鳥渡る
第一章掲載の作品。「藍生」誌発表時に読んで大変感動した。鳥が渡るという季語と現代史の組み合わせ。それ以来、作者の印象はこの句に集約されている。
今回改めて句集『遠山桜』を通読して関心を抱いた句に触れていきたい。
集中「掃く」という言葉が多く登場している。「掃く」とは「刷く」であり、表面を掻いて刷新することだ。「掃く」は表面にあるものを掻いて排除すること。「刷く」は薄く塗ることだ。いずれも表面を清拭するように刷新して平らかにする。刷新された地表はカンバスのように可能性を生む。
掃き寄せて花屑の皆捨てらるる
美しく散った花びらも掃き寄せられれば花屑として廃棄される。作者の目は花びらより捨てられることへ向けられている。
落葉掃くお互ひに目も合はせずに
一生の仕事のごとく落葉掃く
一心に落葉を掃く人たち。その心は自分の内に向けられているのだろう。三昧境にあるのかもしれない。
掃除婦のピアスの光る小春かな
掃除婦の最後に拾ふくわりんの実
作者の関心は職として掃除する人たちへも向けられる。ピアスや花梨の実がその人達を祝福しているようだ。
秋蝶の死んでゆかうとしてをりぬ
死んだかもしれぬ秋の蝶探したし
この二句が句集の冒頭部と終末部に置かれている。その間二十年以上の時が流れている。近々やってくる死を纏った秋の蝶へ向けられた作者の思いは人々に共通するものだろう。それ以外にも「足許をいま秋蝶の発つひかり」「秋蝶の骸片付けられてをり」と、秋蝶の句がある。さらに次の句、
蝶の翅毀さぬやうに掃き寄する
何か大切なものを慈しむが如く蝶を掃き寄せる作者。命は果てても骸は残る。小さな蝶にも生じる生と死という現実をしっかりと見つめているのだ。それは自己を秋蝶へ投影しているだけではなく、冒頭の現代史の句に通じる自己の存在と自然の営みに共通する大いなるものへの洞察でもある。
以下の句は師黒田への呼応だろう。
悲しみのこぼれぬやうに葱刻む
(掲句は全て近藤愛作)