現代の俳句7〈海を知らぬ〉寺山修司
現代の俳句7〈海を知らぬ〉 寺山修司
三島広志
俳句と平行して短歌を作っていた。三十歳の頃だ。切っ掛けは木枯が山を吹き抜ける句がどうしてもまとまらなかったのでいっそ短歌にしたらどうだろうと考えたのだ。
枯山を木枯し空へ抜けし音幾度聞かば父に近づく 広志
この歌をおもしろ半分に角川「短歌」の公募短歌館へ送ったら島田修二特選に入り「枯山を吹き抜けるこがらしに、作者はこの世の果てを感じている」などと身にあまる解釈までしていただいた。いわゆるビギナーズラックというやつである。
俳句と短歌は兄弟のようによく似た形式なのに両方作る人は少ない。大家と呼ばれる人にはまずいないだろう。わたしの経験からすると、両方を作っているとついにはどちらも出来なくなってしまうのである。
五七五七七の七七があることで、俳句を作るための緊張が緩み、逆に五七五と言い切る癖で短歌の調べがぎこちなくなる。つまるところ、両者は全く異なった文芸なのだ。
俳句と短歌の両方に名を残した人に寺山修司(昭和十年生)がいるが、彼も時期を同じくして創作してはいない。中学から十八歳まで主として俳句を作ることで自己形成したと本人は述べている。「チエホフ祭」で短歌研究新人賞を得た十八歳以後は俳句を止め、短歌にその活躍の場を移したのである。
修司と中学と高校を同じくし、十代俳句雑誌「牧羊神」の編集もした京武久美によれば、修司は当時から他人の作品から言葉やフレーズを借りたり盗んで自分の言葉とイメージに磨き上げる才に長けていたそうである。
これは後に戯曲に進んだとき彼を大きく助ける才能となったろうが、「俳人格」などという言葉があるほどの厳格な俳句の世界からはあまり快く思われてはいない。今日でも俳句雑誌で修司を取り上げる機会が少ないのは次に紹介する短歌のせいであることは想像に難くない。
莨火を床に踏み消して立ちあがるチエホフ祭の若き俳優 修司
燭の火を莨火としつチエホフ忌 草田男
一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき 修司
種蒔ける者の足あと洽しや 草田男
同じことは自分の作品でも試みられている。
海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり 修司
夏井戸や故郷の少女は海知らず 修司
わが通る果樹園の小屋いつも暗く父と呼びたき番人が棲む 修司
父と呼びたき番人が棲む林檎園 修司
これらの短歌は修司の短歌中とりわけ有名な作品であり、わたしの愛誦歌でもあるが、それらの作品が他人や本人の俳句に題材を得ていたところに一抹の割り切れなさを感じる。
確かに和歌の歴史には本歌取りという技法があって、むしろ本歌を知っている学識を高く評価されてきたが、俳諧連句はそうした伝統をばっさり切り捨てることで庶民一般の文芸として連歌から独立したのだ。
修司自身も本歌取りとは考えていなかったろう。だからと言って修司の作品を剽窃とも思わない。むしろわたしは二つの形式の間を修司がどんな気持ちで行き来したかにとても関心が湧くのである。
俳句は短いために無限の想像を許す。しかしそれは想像力のある読み手にのみ許される。短歌はその許容を少し限定してくれる。その分かえってイメージを形成しやすいのではないか。読み手に優しいのである。
「海を知らない少女」の前に「両手を広げるわれ」を置くことで実に初々しい光景が描けるだろう。限定のないモノの世界を剥き出しで提出するだけでは修司は物足りなかった、あるいは怖かったのではないだろうか。そこまで読者を信頼出来なかったのかもしれない。終には彼は短歌も捨てて劇や映画という視聴覚を用いる発表の場に
移ることになる。
しかし彼の芝居は観客に強いイメージの喚起力を要求する。決して受け手に優しくはないのである。その点では実に俳句的である。
歯冠まだ馴染まざりせば舌で嘗め寺山修司のあをき劇観る 広志
修司亡き後、劇「新・病草子(寺山修司作)」を観る機会があって、帰り道に作った短歌である。その折り、彼が晩年俳句に戻ろうとした気持ちがなんとなく分かったような気がしたのである。