現代の俳句4 〈未来より〉 夏石番矢

現代の俳句4 〈未来より〉 

三島広志

 思えば私の俳句において平井照敏という人の影響は大きい。「国文学解釈と鑑賞」誌の昭和五八年二月号に照敏と草間時彦の対談があり、時の若き女流俳人として次の人達が紹介されていた。

 べっかふ飴青水無月の森透かす 黒田杏子
 白葱のひかりの棒をいま刻む 同
 飛魚のいのちしろがね濤を翔び 神尾久美子
 熱帯の空白 跣の孔雀くる 伊丹公子

 「ひかりの棒」や「いのちしろがね」などは既存の俳句には無い新しい表現だと称賛されていたのだ。私が今「藍生」にいるのはその影響を否定できない。
 さらに照敏は高柳重信編集の「俳句研究」(現在刊行中のものではない)や坪内稔典を中心とする「現代俳句」を力ある若者の集団として評価していた。

 そこで早速「俳句研究」や「現代俳句」を購読したのだがほどなく両誌とも廃刊になってしまった。「俳句研究」は重信の死去や経済的理由から、「現代俳句」は新たな発展を目指して。
 手持ちの「現代俳句」を本箱から取り出してみると「藍生」に参加している中岡毅雄、今井豊の名も見える。特に豊は第一句集「席捲」を発刊したばかりで、その特集に大切に育てたいという稔典の熱意が伺われる。

 寒禽に未だ突き指の癒えざりし 中岡毅雄
 萩枯れて気になることがいつまでも 同
 落書きの中の愛憎鳥渡る 今井豊
 血を拭けば薄刃にもどる冬の凪 同

 「現代俳句」の別冊「俳句・1984」では夏石番矢や長谷川櫂などが評論で活躍している。
 今日の若手俳人の中心と目されている櫂と番矢は俳句観の相対する立場の代表として象徴的に比較されるが、当時の「現代俳句」別冊にも既に互いの明確な立場が記されている。

  俳句という短詩型は、短いという欠点を《切れ》によって克服しようとしている だけではなく、《切れ》によってことばを活性化させようとしている。
俳句と世界性 夏石番矢

 俳句を破壊しているのではないかと評される番矢は、このように俳句に日本語の活性化の可能性を見て取っている。つまり、俳句のみを見ているのではなく、それを包む日本語から俳句を捕らえ、とりわけ「切れ」にことばを活性化させる可能性を期待しているのである。「切れ」はことば一般に普遍的な活性力を有するが故に外国においても十分力を発揮できると理解しているのだ。そこには破壊どころか普通の俳句作家以上に俳句に寄せる情熱が感じられる。

  古人たちは、生々流転をくりかえす、はかない外界の自然にいつしか見切りをつ けて、むしろ進んで心のなかに、より確かな世界を築き上げようとした。
俳句と都市 長谷川櫂

 長谷川櫂は俳句は「場」の文芸との立場を明確にしているが(先月号参照)、番矢は「切れ」という言語構造に重きをおく俳句作家であり、櫂は「季語」の持つ普遍的な伝達性を信頼した作家と言えるだろう。

 日本海溝 幕が下りれば海あらず 番矢
 犬捨てられし野を剃刀が映しけり 同
 未来より滝を吹き割る風来たる 同
 天ハ固体ナリ山頂ノ蟻ノ全滅 同

 俳句の可能性と本質の探求のために様々な試行をして、結果として読者を拒絶しているかのような番矢も実は読み手を待っているのではないだろうか。今は読まれなくてもいつかは読み手が出てくるかも知れないと望んでいるのだ。
 その点では番矢なりの「場」を求めていることになる。およそ人間の営みは「場」に依存しなければ成立しないものなのだ。

 昔、難解派と称された加藤楸邨・中村草田男・石田波郷も今の読者にはさほど難解とは映らない。彼らの作品を受け入れる「場」が動いたからに違いない。作品を支える「場」は時代と共に動いているからだ。
 では、「場」の動きを成り行きに任せておけばいいのだろうか。そんなことはあるまい。そこには時代的な、あるいは俳句の詠み手の総和としての志が必要になってくる。

 番矢は力強く俳句の「場」の彼方を目指して開墾し続けて行くだろうし、櫂は過去の俳人たちとも共有可能な「場」を保持しつつ、新しい可能性を索ねているに違いない。