俳句と“からだ” 198 季語 紫雲英
『俳文学大辞典』(角川書店)には次のように記載されている。
季語とは連歌・誹諧・俳句において季を表す詩語。古くは「四季の詞」「季の詞」「季詞」といい、「季語」という言いかたは大須賀乙字(『アカネ』明治四十一年六月号)に始まる。
このように、季語は伝統的詩歌において用いられる季節を表す言葉である。したがって有季俳句、無季俳句に関わらず季語を勉強することは詩歌に関わる者にとって必須の課題となる。そこで今回、自分なりに季語に対峙してみようと思う。
鋤き込みし紫雲英に満たす山の水
斎藤夏風
日本は北海道から沖縄と南北に長い国だ。また太平洋側と日本海側では背骨に当たる山脈を介して全く異なる気候となり季節もずれる。北の地が雪で囲まれているとき南の地では櫻が咲き始める。季節は暦通りではない。さらにその土地には土地の文化と歴史があり、日本全体を統一出来るものではない。それを宮坂静生氏は地貌季語と称してその土地のいのちの言葉を見出そうとされている。季語は普遍的な歳時記的意味に加え、その土地独自の意味を包摂している。さらに季語には一人一人の想いも託される。それらによって季語の彩りが豊かになるのであろう。
どの道も家路とおもふげんげかな
田中裕明
今回取り上げる季語は春の「紫雲英」である。マメ科の紫雲英は空気中の窒素を蓄える根粒菌と共生しているため鋤込めば有用な窒素肥料となるため化学肥料が普及する前の緑肥として利用された。前年の秋、農家が種を撒いて田植えに備えておく。決して自然発生ではない。また、紫雲英の「英」は「はなぶさ」で中央の凹んだ花を表す。これは蒲公英も同じことだ。子どもの頃、田植え前の田圃を紅紫に染める紫雲英田は春の彩りであった。遙かに聳える伊吹山や養老山系。蜜蜂が飛び回る辺に座り子ども達は花の首飾りを編む。中には相撲を取って農家の人から叱られた思い出もあるだろう。紫雲英のしっとりとした湿り気は今でも身体の記憶として残っている。
これら様々な情報が季節感を超えた紫雲英のイメージを形成する。読み手は鑑賞を通して詠み手の紫雲英からさらに自分の紫雲英世界を展開させる。そこには両者による新しい世界が立ち上がっていることだろう。その世界を産み出すためには教養や想像力が求められるに違いない。つまり季語は教養なのである。
げんげ田や昼は遺影が家を守る
鈴木鵬于