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【読み切りショート】冬の遊び

 朝は曇っていたが、午後になってから次第に晴れ間が広がって、黄昏時はきれいな夕焼け空となったそんな或る冬の日の晩である。

 ここに一組の不適切なカップルがあった。男は四〇歳の大学准教授、文学部仏文科である。女は二〇歳の女子大学生、准教授のゼミの学生である。

 女は男の腕にしがみついてぶら下がるように歩いていた。これから夕食に向かうのだが、已に酔っているような足取りである。

「ねえ、先生」と女が言った。ねーえ、と伸ばして語尾を上げた甘えた口調で言った。

 男が准教授になってから八年が経つ。もうすぐ教授になれそうな気がしている。一昨年書いた現代フランス文学に関するエッセイで小さな賞を受けた。今年はその出版社の依頼で書いた現代フランス映画に関する本が、その界隈では異例のベストセラーとなった。それ以来、この男に関わる女が増えた。男は独身であった。そして女を詳しく知らない彼はまた軽率であった。

 クリスマスである。このY駅前広場も大いにイルミネートされていた。かつてはけばけばしかったイルミネーションも、昨今は建築や人々に調和したものとなっているようだ。折角の幾望の月も儚げである。

 二人は駅前広場を抜けて、街を行く。こちらのイルミネーションは聊かけばけばしいかもしれない。二人は街を通り過ぎて、横丁に入った。そしてさらに道を折れた。

 そうすると、漸くイルミネーションの全くない通りに出た。街燈が真冬の道を照らす閑静な通りである。ここをもう少し行くと、赤や黄のささやかなイルミネーションが施された一構えがある。知る人ぞ知る旨いフランス料理屋である。クリスマスイブのディナーともなれば予約で一杯である。

 二人は店の前まで来た。分厚いカーテンの隙間から、灯りと微かに音楽が漏れている。二人は店に入って、食事をした。

 先ほど男についての紹介をした。一方の女は、大学三年生である。四年生であれば、卒業に必要な単位が足りないとかの理由で、このような准教授と一晩過ごすという企てもあろうが、三年生で彼と付き合う理由はなんだろうか。就職のコネを作ろうという企てであろうか。

 食事を終えると二人は街を散策した。准教授は、今宵こそ情交に至りたいと欲していた。今日は朝からそのことを考えていた。殊にディナーの途中からはそのことばかりを考えていた。男は奥手であった。恋愛経験に乏しかった。如何に切り出せばよいか分からなかった。

 一方、女もまた今夜こそチャンスであると考えていた。しかし、准教授が誘ってくるまでは待つつもりであった。飽くまで唆すまでである。
 二人は歩いた。女の方はワインをグラス二杯飲んだためにいよいよ蹣跚とした足取りであった。

 ホテルに行けばよいのだろうかと准教授は考えていた。しかし踏ん切りがつかなかった。思い切りと勇気と、そして経験値が足りなかった。しかし今から行っても結局は遅かったかもしれない。今宵のような日は満室だったであろう。

 二人は崖上の公園にやってきた。ここは眼下に港が見下ろせる。停泊したクルーズ船ではクリスマスパーティーが催されていて、光と音がここまで届いてきていた。

 若い男女の組が多くいた。ベンチに腰を掛けようにも、ベンチはすべてそのような男女で埋まっていた。二人はゆっくりと歩いた。准教授がちらりとベンチに目をやると、そこは男のカップルだった。白人の若い男と中年の日本人男性だった。
 二人は崖際の手摺まで来て、海を見下ろした。しばらく黙ってそうしていた。

 准教授は何か観念したような顔をした。そして言った。
「冷えてきたね、そろそろ帰ろうか」

 女は先ほどから抱きしめていた准教授の腕を、強く握った。これはこの女の手練であった。男の袖口を強く握れば、男の感情が揺れることを知っているのである。

 二人はしばらく黙っていた。どちらかと言えば、女の方が敢えて間を取っていたといえる。そして女もまた観念したような表情をして、呟いた。

「先生の家、行きたい」

 准教授の頭の中は真っ白になった。想定外の女の返答であった。直ぐに、自宅である広くもないマンションのことを考えた。彼は一人暮らしである。ダイニングテーブルには数多の書物が積み重ねてある。無論、それは構わない。台所は片付いていたはずだ。問題は寝室だ。服を脱ぎ捨てたままだ。寝巻もベッドの上に放置してある。しかし、これらのものはクローゼットにでも放り込んでしまえばよいだろう。臭いはどうだろうか。若い女が嫌がるような臭いがしているかもしれない。でも女は酔っている。気にしないかもしれない。
 長々と書いたが、准教授がこれらのことを考えていたのは二秒間のことである。

「うん」と、准教授は答えた。

 女は横顔を男の肩に押し当てた。これもまた彼女の手練であった。

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