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多様性って正義じゃない。

"多様性"

わたしはまだ22年間しか生きていないこともあって時代の巡り方がよくわかっていないのだけど、今、この瞬間のバズワードのひとつに"多様性"は間違いなくランクインしていると思う。

毎年行われる流行語大賞みたいな感じで、やはりその時代時代でバズワードがあるのだろうか。時代背景によって、生き方も考え方が変わる象徴的な言葉。

「考え方」があるから「言葉」が生まれるのか。「言葉」があるから「考え方」が生まれるのか。

前に、会社の先輩が「就活」という言葉を無くしたいと言っていた。きっとこの言葉があるからあのシステムは壊れないんだと。それが良い悪いは置いておいて、たしかになと思った。人の思考は言葉のレールに乗せられる。戦争や政治や組織や宗教や。ちらほらと白黒写真のシーンがよぎるからどの時代も同じなのだろう。

ぼんやりとした風潮や意見も。それにバチっと一致した産み落とされるバズワードが時代に輪郭をつくっていくのかもしれない。


多様性を主張して生きていくことは、一見キラキラしているし自由な印象がある。自分らしく生きることで幸せになれるのなら、ひとつの手段として多様性を認め主張することは良いことだと思う。

でも、"多様性"や"自分らしさ"がはっぴーな生活を運んできてくれるかと言ったらそれは違う。

なぜなら、多様性は思ったよりも孤独だからだ。自分らしく生きるには、まず自分らしさを自覚する必要があるし、それには内省する力も必要だ。幸せになる道も、また自分でつくりあげていかなければならない。ロールモデルは、自分自身。

それはまさに、大海原に心細い木製のボートで漕ぎ出すような、未開拓のジャングルを斧ひとつで耕そうとする行為のような......なんともやるせない孤独に見舞われることもあるだろう。(会社を飛び出したあと実際わたしはそう感じた)もちろん、それを楽しめる人はいい。それが幸せにに感じられる人ならいい。でも、そうでない幸せの形があることもたしかだと思う。

同調圧量の強い社会日本で、わざわざ大声を出し受け入れてもらえるか共感してもらえるかわからない自分の中にあるマイノリティを主張して生きることに、"自分にとって"価値があるのかは疑問に思ったほうがいい。マイノリティはときに強い孤独感を生む。多様性を自分の幸せに置き換えられず、不安や不安定の手綱を持てずに自分を見失ってしまうことの方がよっぽと不幸だと思う。(もちろんその経験が後に活きたりするのだけれど)人と違う自分を一番前に持ってきて生きるとは、そういうことだ。

多様性は、自分が幸せになるための手段として使うくらいがちょうどいいのだと思う。人と違うから良いとか、人と同じだから悪いとか、そんなことを言っていたら、多様性そのものが生きる目的になってしまう気がしてならない。

自分を幸せにするために、多様性も同調も、心地よくカスタマイズして生きることこそが「自分らしい生き方」なのではないだろうか。

#みさとん日記 #エッセイ #日記 #多様性 #生き方

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