自分を大切にできなかった女の子が見つけた恋の話し
「そうだよね、えへへっ」
浮かべたつくり笑いは、嫌われたくないがゆえに差し出した魂のカケラだった。
「おまえ、ほんとバカだからな」「ネガティブになると面倒くさい」「おまえって、ほんとさ」
心にチクン刺さる言葉にさえ、笑って誤魔化した。
好きな人が言うのだからそうなのだろう。この場が嫌な空気にならなきゃいいや。いじられて笑いに変わるなら、なんてことない、わたしはこういうキャラだから。
好かれたくて、嫌われたくなくて。愛してくれるなら、としょうもない男にひょいひょいついて行き、心がえぐられるほど傷つい夜にはさすがに一晩中泣いて後悔したけれど。
好きな人ができるたび「都合の良い」女を演じ「どうでもいい」女に成り下がる恋愛を、絶えず繰り返していた。
今なら、なんでそんなことしてるん!!!!と、自分の頰にビンタしたいくらいだけれど。当時のわたしは、愛されないのは自分のせい。とまで本気で思い、枕に涙を流していたのだから、相当重症だ。
自分の目標に向かって挑戦する度胸は図々しいほどあるくせに、男の人を前にするとその勢いや自信はしゅんと怯んだ。
「わたしなんか、誰にも愛されない」
寂しくて、愛されたくて、相手を丸ごと自分の中に取り込みたい欲求を扱いきれなくなり、結局は相手にYesを言い続ける恋愛にドロドロ溶けていく。
そんなとき、資生堂の企業文化誌「花椿」のWeb版で連載され単行本も発売された漫画『ダルちゃん』に出会った。
私は自分で自分を抱きしめることができる それが希望でなくてなんなのだろう
ダルダル星人の姿を見せまいと、他人の目を気にし“ふつう”の人に擬態して生きるダルちゃんが、最後、何よりも大切だった恋人と別れてまでも「自分を愛する」生き方を選んだ姿に、涙が止まらなかった。
これは、わたしの物語だ。
自分で自分を愛せるのことが、どれほど尊く、美しく、力強いことなのか。そして満たされる生き方なのか。自分のあり方や生き方を、少しずつ考えるようになったのもこの時期だった。
蝉の鳴き声が、風の音をかき消す季節。
言葉はときに、「呪い」にもなるけれど、生きている限り何度でも塗り替えられる「おまじない」にもなるのだと教えてくれた人がいる。
いくら擦ってもとれない。擦りすぎて血が滲む肌にそっと手を添えて、何でもないと笑うきみに出会えなかったら。わたしは今でも、自分の身体をゴシゴシと擦っていたかもしれない。
傷だから、ね。
一緒に連れていけば、いいんだよ。
自分を愛おしく思うとは、傷をも愛でることなのかもしれない。
「わたし、バカってよく言われるんだけどさ」
ズキンとうずく傷口を誤魔化して、自信なさそうにへらへら笑うわたしの口元を見透かしたように、「そんなことない」とまっすぐ呟く彼。顔を上げると、優しく寂しげな目が待っていてくれた。
「わたしを、大切に扱ってくれる人って、いるんだ」
何でもないその数秒間に、何にも勝てない安心感が膜が張るように身体を覆った。
ああ、もう。自分で自分に、呪いをかけて生きなくていいんだ。
うしろを心配そうに振り返るわたしに、大丈夫と横にいてくれる。前を向かせるわけでもなく、背中を押すでもなく、見守るという愛で抱きしめてくれる手を。わたしは、この人といるときの自分が好きだ、と胸を張って言える自分自身を。
愛して生きていこう。
たとえそれが、どんな形であれ。どんな、未来であれ。
自分がありたい自分でいることが、最も幸せな「恋」だと思うから。