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n=1の経験を語るときに

 ご無沙汰しております。

 noteの定期更新を(勝手に)お休み中ですみません・・・この春から大学で学び始めたこと、個別の学習支援をしている子どもさんたちもじわじわと増えていること、学校に関わるプロジェクトを始めたことなどで、アップアップしている。ここにまとまった文章を書く余裕がないかわりに、数カ月前から始めた個人Facebookに日々のことは綴っているので、西尾・西尾オットと面識ある方限定ですが、つながって下さるようだったらお友だち申請してください。ただあの、Facebookよく分かってないので、申請やメッセージに気付かなかったり、挙動不審なことしてたらすみません。

 しばらくはちょっと手があかないので、Facebookの内容のうち公開できそうなものをこちらに転載したり、少し加筆してアップしたりできたらいいなと思っています。

 と書きつつ、今日は少しそれとは別で書いておきたいことがある。

 通信制高校に進学し、日々楽しそうに過ごしているムスメさま。最近、不登校の経験について話して欲しいと依頼されることが多く、自身の経験を率直に話す機会を持っている。自分の経験がほかの誰かの役に立つのであればと、自分で考え判断し、積極的に引き受けていて、頼もしく思っている。彼女にとっても、「これでよかったんだろう」と自分の歩んできた道を自分で肯定するプロセスにもなっていたり、言語化することで様々な発見があるようだから、本当に貴重な機会を頂いておりありがたい。その一方で、これは何かが具体的にあったというのではないのだけれども、私自身は「発信することの難しさ」について(勝手に)頭を悩ませていたりもする。というのも、不登校というのは様々な段階があり、またその背景や歩みも実に多様な中で、ムスメさまの発信が「不登校の代表例」みたいなもの、もっと言ってしまえば「不登校の成功例や理想像」みたいなものとして受け取られはしないだろうか、という危惧を払拭できないせいである。ムスメさまの語りは、「私はこのように歩んだ」というn=1の経験にすぎないが、受け取り手によってはそれを単なるn=1と受け取れず、「こうあるべき」ものとして受け取って、自分を追い詰めてしまうかもしれない可能性について考えてしまう。

 もちろんそんな思いこそ傲慢だとも思う。どんなメッセージだって、受け取る側がどのように受け取るかは完全に自由である。受け取り手のレディネスだって多様であり、そのことだけ考えてみても、どう受け取られるかをこちらでコントロールできない。さらにn=1の経験をn=1の経験だと胸をはって伝えていくことを、「色んな人がいるんだから」と抑圧するような社会に生きたいとは、私自身思えない。それでもなお、すでに不登校で苦しんでいる人をより苦しめたり、追いつめたりしたくはない、という思いが常にどこかにある。とりわけこの日本社会には、n=1の経験をn=1として受け取れる、「個人」が育つ土壌があまりにないように思うし、「世間」や「普通」がn=1の経験を容易に飲み込んでいってしまうから。

 ムスメさまの歩みに私たち親の干渉や介入ももちろんあり、そのこともよく尋ねられる。先日ムスメさまがとある会でお話した時もその点について(親である私が)質問を受け、「私はとてもあざといです」と答えたのだけれども、私自身の抗いがたい特性として「物事を分析的に考え、合理的な方法を選んで先手を打つ」というものがある。なので「こういう意図を持って、こういう方法をとり、結果どうなった」という筋道がクリアなことが多く、うまくいった例を出すとまるでそれが正解のように受け取られかねない。でもうまくいった例の裏には、あざといくせに失敗した数々の作戦があるわけで、そういったこともお話したらいいんだろうけれど、それはムスメさまの名誉がかかっていることが多いので(そりゃそうですよね?)話しにくい。本当はそういった試行錯誤の中から学んだことのほうが多く、結果オーライに見えることもその積み重ねがあって初めて成り立っている。そして伝えるほうとしても「今後の参考になれば」という思いがあるので、より端的に結果オーライの例を出すことになってしまう。

 だから「伝える」って難しいな、と尻込みしてしまう。

 大体「不登校」ということの捉え方も千差万別で、私の中にも様々な思いが複雑に絡まり合っている。ムスメさまに関しては、学校へ行くメリットとデメリット&リスクを考えたら、「学校に行かない選択をして本当によかった」と思っている一方、「学校へ行くことは権利だからな?」「学校が全ての子どもを包摂しろ」とも思っている。アンビバレントな思いが交錯するけれども、でも私の場合、その絶妙なバランスをとってきたことが、(私自身の)メンタルヘルスの健康につながっているように感じている。「今の学校、そもそも(我が子にとって)行く価値ある?」と学校を相対化する視点と、「それでも学校へ行くことは権利なんだから、何とかしてくれ」と権利を主張するスタンスは、あくまでも私に関していえば、不登校という状況の被害者ポジションに位置づけられ、ずっと受け身でダメージを受け続けることから救ってくれている。もちろん鉄壁に跳ね返されて傷つくこともあるし、疲弊することもたくさんあるけれども。

 だから不登校によってつらい気持ちになっている子どもたちの、そのつらい気持ちに心を寄せつつ、一方で不登校だからって「かわいそう」とか「気の毒」とかっていうふうには1ミリも、本当に1ミリも思っていない。絵本作家の五味太郎さんが、お嬢さんの不登校について「学校生活の不条理にハッと気づくタイミングは人によって違う。たまたま彼女がその時だっただけ。」と朝日新聞のインタビューで答えておられたが、私も本当にそう思っている。「この仕組みはおかしい」「ここにはいられない」と気づいたこと、それをなかったことになんてできないし、学校に行くとか行かないとかいうことよりもっと、もっと大きなプロジェクトにもう子どもは取りかかっているんだと思う。君がそのプロジェクトに取り掛かるタイミングが、たまたま今だったんだね。我が子にしても、身近で出会う子どもたちに対しても、そんなふうに心の中で声をかけている。気付いた前と後とで同じ生活をするのであれば、子どもたちが(不登校という形で)しんどい思いをして「気づいてしまった!」と声をあげた意味がなくなる。私たち大人にできることは、子どもたちの「気づいてしまった」を受け止めて、その不条理にどう答えを出していくのか、この社会で新たにどう自分を打ち立ててやっていくのかを一緒に考えながら伴走することなのではないだろうか。その営みを「かわいそう」とか「気の毒」などと思う余地はないし、学校も子どものその一大プロジェクトを応援して、学校として出来ることを一緒に考えてあげてほしい。

 あれ、話がそれてしまったかな。

 まぁとにかく発信することは、どう受け取られるか分からないリスクを引き受けることではあるのだけれど、n=1の経験がどこかで誰かのヒントになったら嬉しいなと思うし、子どもたちのプロジェクトを応援する眼差しを共有することができたらいいなというふうにも思っている。

 関係ないけど、写真は県民クッキー型で焼いた都道府県クッキーだよー。めっちゃ大変だったけど、達成感半端ない。

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Nishio Misato
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