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「甘やかす」って?

 甘やかす、って何だろう?ということを考える。

 子どもに対して「甘やかしすぎ!」って他者から責められることもあれば、「これは、甘やかしすぎなのでは?」と自問したり自責したり。

 でも「甘やかす」という言葉で人々がイメージすることにはだいぶ幅があって、甘やかすイコール「いつでも、なんでも子どもの要求通りにする」ことだと捉えるならば、それは確かに違う(よくない)と私も思う。

 ただおそらく多くの人はそう極端に捉えているわけではなくて、「子ども自身でできたらいいこと(将来的な自立につながること)をさせないで、過剰にサポートしてしまう」ことを「甘やかす」と考えているのではないかと思う。だからこそ他者に対しても自分に対しても、その行為は適切か?とジャッジしたくなってしまうのではないか。

 でも「ここからが甘やかしです」という明確で客観的なラインがあるわけではない。子どもが持っている力はそれぞれに違い、今できること、ちょっと頑張ればできること、今はできないことも違う。同じ年齢のほかの子どもができても、目の前の子どもができないこともある。また環境が整っていなかったら、できることもできない。

 このように「子と環境による」のだから、それらについてよく知らない他者が「それは甘やかしだ」と行為だけみて判断することはできない。だから不用意に投げつけられるジャッジの言葉に耳を傾ける必要はない。直接子どもに関わる人も、それが甘やかしかどうかという基準は外部にあるわけではないから、目の前の子どもと一緒に試行錯誤するしかない。振り返ってみたら「甘やかし」であったり、その逆である「頑張らせすぎ」ということだってあるかもしれないけれど、そういうものなんだと思う。時間が経ってみないと分からないこともある。

 それに「甘やかしてはいけない」という不文律があるように思うけれど、正直私は「甘やかして何が悪い?」と思っている民である。子ども自身ができたらいいなと大人が思っていることを(子どもが)しない背景には、そもそもその課題のハードルが高いとか、何か子どもなりの事情があるんだろう。そしてすでにできることを子ども自身が「して欲しい」って他者に甘える時があったっていいし、そうやって甘える先があることって幸福じゃないか、って思う。

 とはいえ、子どもがちょっと頑張ればできそうなことにチャレンジしてもらう、ということは私もよくする。その時に考えていることは、「そのチャレンジは、子どもの自由を増やすことになるか?」ということだったりする。たとえば移動。自分が行きたい、と思えるところに1人で行けるようになれば、送迎を担う他者の予定や気持ちに左右されずにすむ。これは「自由」を増やすことにつながるので、出来る範囲で練習をしていけるといいなという思考が働く。そして「できる」ようになったら、つまり望んだ時にはそうすることができるという自由を手にしたら、あとはもう甘えたい時に甘えたらいいと思っている。大人もそれに応えられる、応えたいならそうしたらいいし、無理であれば無理と言えばいい。大人にも事情がある。

 ただその時に、このチャレンジは子ども自身のニーズなのか?それとも大人のニーズ(事情)によるものなのかは、大人の中で明確に切り分けておく必要があると思っている。「行きたい時に自分で行けるようになるため」なのか、「送迎が負担だから自分で移動できるようになって欲しい」なのか、その両方ともなのか。ニーズの主体(つまり主語)をはっきりさせておかないと、どちらも「オレが望んだことじゃねー!」と恨み合う修羅場が待っている気がする。

 「行きたい時に自分で行けるようになるため」なら、そのチャレンジのメリットを説いて「一緒に練習しよう」というアプローチになるはずだし、「送迎が負担だから自分で移動できるようになって欲しい」のだったら、「家族の一員として協力して欲しい」というアプローチになろうかと思う。いずれにしても説明をして同意を得なければ、嫌なことを無理やりさせられているとか、意味の分からないスパルタをされているとしか子どもに思ってもらえないし、望んだ結果(1人で移動ができるようになる)も得られない。

 こうして主語を分けて考える、ということが、子どもの権利の保障につながっているとも感じる。そして「子どもの権利」の視点から「甘やかす」を眺めてみると、「子どもの最善の利益」を見通しながら、子どもの「甘えたい」気持ちに寄り添い、その都度どう応答するか考えるという、激ムズな営みの風景が立ち上がってくる。激ムズなんだから悩まない人はいない。

 でもそこが必要以上に血みどろの戦場になるかならないか、その明暗を分けているものは確実にある、と思っている。それは、自身が(無自覚に持っている)「子ども観」。子どもとは、本来「何かを自分でできるようになりたいと願っている存在」だと捉えているか、あるいは逆に子どもは「出来れば楽したいと考える、わがままな存在」だと捉えるかで、子どもに寄せる信頼は異なる。子どもへの信頼がなければ、疑心暗鬼の中での駆け引きや取っ組み合いになりかねない。子どもは甘やかしたらわがまま放題になるからと、子どものキャパシティを超えて頑張らせたり、無理強いをしたりしてしまえば、子どもが倒れてしまうだろうし、あるいは子どもが抵抗してきたら、お互い満身創痍という状態になる。だから、自分の持つ「子ども観」には自覚的であった方がいいと思う。自分を含め、昭和マインドが残る世代なので、後者の子ども観の影響を受けてしまうことは免れないけれど、意識的に「信頼ベース」に寄せていく、その努力はできると(自分を)信じたい。

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Nishio Misato
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