いつかのはなし。
最近、悲しい夢をみる。
よく見る類は、母に理解されなくて怒っていたり、
友達とうまく噛み合わず孤独に苛まれる教室の中だったり。
寂しく、その吐口がないまま、泣きながら目覚める。
私には、心の話を気軽にできる、母や友人がいない。
度々訪れる孤独の波の一つに、「死」がある。
人は、生まれながらに「いつかの死」に対しての恐怖を感じない能力を備えているらしい。
どうやら、私はその能力が少し乏しいようで、
幼い頃、自分より先に死んでしまう、台所に立つ母をみて泣いていた。
いまも、ふといつかの死を思うと、心がどうしようもなく苦しい。
夫と出会い、初めて二人でカフェに行ったとき、
死についての話をした。
哲学的には、死を感じる”時”はないのだと、夫は言った。
それまで生きていて、瞬間的に死の世界に移動するから、
実際に、「死」という時間をポイントとして自分自身で感じることはないのだという。
それは、他の人が感じるものだと。
その時は、うまく消化できなかったけど、
信頼できる人に言葉を受けると、
なんとなく理に敵っている気がしてきたことを覚えてる。
そんな、ちょっと変わった夫と、再び「死」についての話をしていた夜。
話は、いつかの互いの死の在り方について。
想像するだけで、やっぱり涙がでた。
きっと、夫がいなくなった後の私は、
自分の心を受け止めてくれる場所がなく、
途方に暮れてしまうだろうと思う。
きっと代わりを求めることもせず、
毎日、自然の過ぎる様を眺めているのだろう。
ふと、
そういった死への恐怖を感じることが久々だということに気づいた。
そして、再びその感覚が生まれたのは、
夫という存在が大きくなっているからだ気づく。
死が怖いのは、愛しい誰かとの永遠の別れを思うからだ。
そう考えると、
いつかの日を思って泣くことも、
たった一度きりの人生において、幸せな感情なのだと思う。
悲しみも、嬉しさも、きっと同じだけ特別なのだと。
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