幸せの国ブータンの「幸せな食卓」とは
幸せの国として知られるブータン。国の開発指針として、経済指標のGDPではなくGNH(Gross National Happiness, 国民総幸福量)を掲げ、2005年に行われた国勢調査では国民の約97%が「幸せ」と回答した。
訪れる前は、作物が豊富にとれ、物質経済に執着せず、生活の不安がなくみんなにこにこしている、そんな国なのかなと思っていた。というかそこまで深くこの国のことを考えたことがなかった。
しかし訪れてみたら、当たり前のことながら、桃源郷ではなかった。
確かに、自然は美しいし治安もいいし、仏教を拠り所として平穏な生活を送っている。しかし厳しい自然環境の中で食料は輸入に頼り、iPhoneにあこがれ、ピザは食べたいし、稼ぐために若者の海外流出が激増していて、私たちの社会と変わらぬ喜びや悲しみがあった。
これは「ブータンの人は言うほど幸せじゃないよ」という話なのか、それとも幸せの考え方が違うのか。
ブータン人が主観的に感じる幸せとは何か、ブータンという国家が目指す幸せとは何か。食のシーンを通して考えてみたいと思う。
「いつも同じ夕飯も幸せ」
訪れた家庭の一つは、首都ティンプーから60キロほどのWangdueという地域の田舎の家族。この地域は(この地域も)ひたすら続くくねくね山道の途中に村が点在し、谷と谷に挟まれた細長いエリアがひとつの村となっている。
この家族は、他の多くの家と同様、農業で生計を立てている。田んぼの草取りをし(棚田なので機械が使えずすべて手作業)、牛の餌となる草を刈り、キノコを採りに行き、牛の乳を搾る。唐辛子が収入源なので、収穫期には唐辛子畑の隅に建てたテントで夜の見張をする。生乳がたまったらバターとチーズを作り、食事の後には庭で皿洗い。
のどかな農村風景に見えて、仕事は無限にあって、休む間はない。道は常に急勾配だから歩くだけでもトレーニング。普段エスカレーターと電車に頼った生活をしている私などは、もう一日の終わりにはへとへとになる。
そんな一家の台所で生まれる料理は、きわめて質実剛健。「畑の野菜と青唐辛子をチーズで煮て、それをおかずにご飯を山盛り食べる」が基本形。そんなに料理に時間はかけられないし、食材が何でもあるわけじゃない。ご飯は炊飯器に任せ、電気鍋に野菜やチーズを入れたら、ものの10分ほどで食事になる。少量の辛いおかずで、山盛りのご飯を食べる。みんなおかわりするから、私も断っても盛られて食べる。
食べたらまた働く。
一日の終わり、家族と床に丸く座り、エマダツィをおかずに山盛りのご飯をかき込み終えると、なんだかもうそれだけで充足した気持ちだし、それ以上何かをする余力もない。スマホいじりをする気力も意欲もなく22時には寝落ちする。
ブータンの食事について
話は逸れるけれど、ブータンの家庭料理は割とワンパターンだ。唐辛子(エマ)とチーズ(ダツィ)と米があれば食事は成立する。この3アイテムは毎日毎食登場し、あらゆる料理に使われる。国民料理と言われるのは、唐辛子チーズ煮のエマダツィで、ご飯と食べる。
エマは、夏は主に生の青唐辛子を使い、それが穫れない冬はドライ赤唐辛子を使うようだ。いずれも調味料ではなく野菜の位置付けで、たっぷり使う。「そんなにたっぷり使うということは実は辛くないの?」と思うかもしれないが、ちゃんと辛い。辛いけれど、辛いだけでなく爽やかな風味やうまみがあって、日本の食べ慣れた唐辛子とは別物だった。
ダツィは、カッテージチーズを丸めて数日熟成させたようなもので、作る過程で乳脂肪を分離しているのでさっぱりしているが、さっぱりながら風味はしっかりある。白カビが育ってにおいが強くなってきた表面を剥くようにして使い、外側と内側をあわせてバランスをとって使う様子に、ダツィ使いの熟達を感じた。
幸せ=底抜けにハッピー?
話を戻して、幸せについて。
ブータン人の幸せ観を理解したかった私は、昼間父さんに「幸せってなに?」と尋ねてみた。あまりに抽象的な質問だ。当然困った顔をされたのだけれど、夕飯の時に思い出したように「これも幸せの一つだよ」とぽつり言われた。「幸せも、不安も、妬みも、すべては自分の中にあるものだ」と彼は続けた。
ブータンは「幸せの国」と言われるけれど、人々は底抜けにハッピーで不安がないのではなく、我是足るを知るというか、あるものに満足し、幸せを感じるのが上手な気がする。気がするというのは所詮短期間滞在した私の肌感覚でしかないけれど、実際書籍や文献でもそのようなことが書かれている。
幸せの感じ上手、いったいどこから
(ラテン系のような)底抜けハッピーではないけれど、静かに満ち足りて幸せを感じられる。このメンタリティはどこからくるのだろうか。自らの体験及び調べたことを集約すると、おおむね以下三つになる。
① 仏教に根ざす「執着しない」思想
② 地形的・政策的閉鎖性
③ 自国文化や伝統を重んじる教育・政策
① 仏教に根ざす「執着しない」思想 について
京都大学で仏教学を研究される熊谷誠慈准教授は、論文「ブータンにおける仏教と国民総幸福(GNH)」の中でブータン人の精神性と仏教思想について論述している。その中で、重要な概念として輪廻を挙げ、仏教に基づく究極的な幸福は輪廻を外れた「涅槃」に至ることであり、これこそがブータン仏教徒たちの目指す最終目的地であると論じている。地位や富や名誉は現世においてのみ有効な二義的なものであり、これを得ることは現世では確かに重要だが、究極的ではなく、追い求めるあまり執着を生んでしまうと逆に不幸になるという。(何のこと言ってる??と思った方は論文原典を読んでください。仏教思想うまく説明できずごめんなさい)
これをGNH的文脈に置いてみると、「経済的に豊かになることは大事でないとは言わないけれど、それだけを追い求めてガツガツするときりがないし決して満たされることはないから、物質的なことばかりに執着せず精神の平穏を目指そう」と言い換えられる。
在東京ブータン王国名誉総領事館は「物質のみ」「精神のみ」といった両極端の考えを避ける、仏教的な中道思想が働いている(ものと思われる)と説明する。
②地形的・政策的閉鎖性について
ブータンという国を地図で見ると、中国とインドという二つの超大国に挟まれたヒマラヤの小国である。歴史的には北側のチベットと交流があったが、ダライラマ14世亡命以降は国境を閉じて南側のインドが唯一の陸路国境に。ヒマラヤ山脈にあって簡単に行ける土地ではないこともあり、外界と地理的に隔離されていた。
地形的な閉鎖性に加えて、政治的にも1970年代まで鎖国政策をとっていた。外国人が旅行できるようになったのは1974年、インターネットとテレビが解禁されたのが1999年。鎖国政策の目的は、強大な隣国からの影響を避け、自国固有の文化や伝統を守ることとされる。この政策から転換したいまも、公式な場では伝統衣装を着用し、伝統的な建築様式の家屋を守り、ゾンカ語を学校で教えることなどが義務付けられている。
これをGNH的文脈に位置付けてみる。ジーンズは存在せず皆同じ伝統衣装を着用し、伝統的な建築様式の家屋に住み、毎日エマダツィを食べ、他国からの情報に触れずに生きていたら、比較対象もないので「もっと豊かになりたい!」などと思う機会もないだろう。エマダツィだけの食卓しか知らなかったら、ピザやステーキが食べたいと思うこともない。
なお、詳しくは後述するが、1999年以降情報化が急速に進み、これが幸福にも影を差しているとも言われる。
③ 自国文化や伝統を重んじる教育・政策について
GNHは単なる思想や哲学ではなく、政策だ。GNHに基づく政策には4本柱がある。よく「ブータンは経済発展を重視していない」と言われるけれど、これは正確でない。ここまでに述べた通り、経済発展の重要性も認めており、GNH一つ目の柱は「公正な社会経済発展」だ。二番目の「文化保存」は、ブータン人としての誇りとアイデンティティを持てることが幸福につながる、という思想に基づくもので、すでに述べた伝統衣装の着用やゾンカ語教育等が該当する。
「国民料理」というのは、世界各地で国民統合の象徴して使われてきた歴史がある。エマダツィも、そうなのかもしれない。
GNHに関する国王の言葉
GNHという概念を提唱したのは、第四代国王だ。初めて口にしたのは1979年にキューバで開かれた非同盟諸国首脳会議でのことだそうだが、その国王と親しかった今枝由郎氏が、2004年7月に面謁したときにGNHについて国王が語られた話として以下を記している。
生きることを誇りに思い、自分の人生に充足感を持つこと。
まさに、田舎の村で出会ったエマダツィ続きな食卓、そのものだ。
「今日もいっぱい働いた、ご飯とエマダツィがうまい」と充足感と誇りを感じられたら、毎日違う料理を作らなければと自分にプレッシャーをかけたり、料理のバリエーションに不満を感じことなく、充たされるのではなかろうか。
進歩する社会と変化する幸せ
しかし、ブータンも変化してきている。
インターネット解禁以降の急速な情報化。インドからの輸入増大。コロナ禍以降オーストラリアに出稼ぎに出る若者が急増し、2022年7月からの12ヶ月間で15,552人のブータン人が豪州就労ビザを得た。これは人口70万人強の国にとっては、大変な人数だ。そのうえこれは過去7年間分の合計人数と等しく、頭脳流出・労働力流出が深刻な懸念となっている。国際化と情報化の時代、厳しい地形で外界から閉ざされたヒマラヤの小国でも、外界と関わらず独自路線で生きていくことはできないのだ。
知ってしまったらエマダツィだけでなくピザも食べたいし、触れてしまったらiPhoneがほしい。スナック菓子はかっこいいし、出稼ぎに行っている親戚がWhatsApp越しに語る食事はバラエティ豊富だ。急激な社会変化の中、旧来的な価値観と流れ入る価値観の間で、苦しみながら道を探している。最終日に空港に送ってくれた若者は、ブータンを誇りに思いながらも「もっと稼げるしみんなが行くから僕も行く」とオーストラリアへ移住を決めた。
難しい。うーん、難しい。
私も我是足るで生きられたらいいなと思うけれど、情報がこれだけ入ってくる時代にどうして「ああこれで満足」と思えるだろうか。特に食に関して言うと、日本ほど諸外国の料理が家庭で作られる国も珍しい。あれもこれも作りたい、昨日と違うものを作らなきゃ。「今日もご飯と味噌汁で満足」と思えたらいいけれど、知らなかった時にはもう戻れない。おいしそうなレストランの料理写真を見たら「あのお店行ってみたい」と思う。
情報化社会は、幸せを感じにくいのかもしれない。かと言ってスマホを手放したらそれはそれで非常に困るし、難しい時代だ。
そういえば、「幸福の国」といえば…
世界幸福度調査でも一位常連で知られるフィンランドでも、幸せを感じるのが上手だなあと思った。食べ物は、けっこうシンプル。「何を食べる」かよりも「どう食べるか」を大事にしていたように思う。
スマホを手放すのは私には無理だけれど、誰と食べるとか、どこで食べるとか、皿の外に少し目を向けられたらいいな。