『世界の市場』の絵本が出ます!翻訳の裏話を少し。
本当に素敵な絵本なんです。ヨーロッパで生まれて、この度日本語版が出版されます。私は翻訳をさせていただきました。
日本語版は原書よりひと回り小さいです。
この絵本は、1月から12月まで、毎月違う国の市場を訪れるというコンセプトで構成されています。
とにかくイラストが精細で、眺めれば市場の活気が伝わってきて、じっと見つめれば肉の繊維の一本まで見えてくるようなんです。
翻訳のお話をいただいた時、原書を手にして目が離せなくなったのを思い出します。何回原稿を見ても、いまだに毎回、小さなイラストの一つ一つに新鮮な発見と感動を覚えます。
ページを開くと、市場の食材や料理紹介に加えて、現地っ子のおすすめおやつやあいさつ表現、それに実際に家で作れるレシピも。現地の食と暮らしに広く触れられます。
元の絵本が素晴らしいので、私の仕事は簡単です。
いかに魅力を損なわず日本語にするか。
ヨーロッパの読者に向けて書かれた文章を、いかに日本の読者に伝わる形に言い換えるか。
…簡単だけれども、案外難しいです。
そもそも、プロの翻訳者でない私に編集者さんがご連絡くださったのは、「世界の家庭料理を見るだけではなく、歴史や社会の文脈を深く読み取ろうとしているから。この本の中の暮らしや文化を汲み取って存分に伝えてほしい」という期待があってのことでした。
正直、絵本を楽しんでもらえたらそれだけでいいのですが、文化を翻訳するということについて誰か興味ある人にお話ししたく、裏話を書きたいと思います。
以下、難しかったことトップ3です。
ヨーロッパ人とアジア人、同じものでも見え方が違う
人間は、言葉によって世界を認識すると言います。
例えば、日本語の雨の表現がせいぜい数十くらいなのに対して、イギリス英語では100ほどもあるそうです。イギリスはいつも天気が悪いと評判ですが、雨との付き合いが深いからこそ、雨を見る目の解像度が高いのでしょう。「今日も雨だね」ではなく「今日は○○な雨だね」という違いが認識できるのでしょう。
食の分野でも同じです。
たとえばタイの市場の "rice noodle"。パッタイのレシピに登場します。
直訳すれば米粉麺です。ヨーロッパ的な視点では、「パスタじゃない麺なんだ!米粉から作る麺なんだ!」というだけで十分でしょう。
しかし、アジアに住む日本の子どもたちには知ってほしい。米粉麺には種類があることを。メジャーなのはビーフンで、ベトナムのフォーも米粉麺。日本製の米粉麺も近年増えてきていて、米粉麺という響きは日本のもののようにも聞こえます。さらに、タイだけに限っても、数種類の米粉麺が市販されています。
その中で、パッタイに使われるのはセンレックという種類。あまり聞き馴染みがないかもしれませんね。ビーフンやフォーを使うと、仕上がりが違ってきます。でもそんなのマニアの話。いきなりセンレックなんて言われたって、なんのことやらぴんとこない。
そこで、他の制約も考慮した上で、ここは「ライスヌードル」と訳した上で「平たいセンレックが一般的」と添えることにしました。
読者全員が知らなくてもいい、細かすぎる情報かも知れないけれど、文化の深みを誠意を持って伝えたいし、年を経て読んでなお発見があるものにしたい。マニアックな深みが時々あります。
原書のイラストが、ビーフンになっていたのはないしょです。"rice noodle" としか書いていないので、うそはありません。ヨーロッパ的解像度では、センレックではなく米粉麺で十分正しいのです。
中国のページの "rice wine" を紹興酒と訳すのか味醂と訳すのかなど、この類の問題は多く出現し、その都度唸りました。
この本は、英語版の他に、イタリア語やロシア語でも出版されているのですが、それぞれの国の読者に向けてどのような表現が使われているのか見比べながら、日本の読者に向けて一番良いと思える表現を選びました。
知っている世界に寄せすぎない
意味がわからないのもよくないけれど、訳しすぎてしまうのも問題です。日本的文脈に寄せすぎてしまうと、一つの見方でしか世界が見られなくなってしまうからです。
せっかく異文化の文化や概念に触れるならば、たとえ完全には理解できていなくても、「なんだそれ、聞いたことないけど?」という違和感があるくらいの方が、興味のきっかけになると信じています。
たとえば、ドイツのページに登場する野菜3種。"Shwarzwurzel"は直訳すると、黒ごぼうです。黒くてずんぐり太いごぼうです。これをカッコも外して単に「黒ごぼう」と訳すこともできるけれど、それを読んだらきっと、「ああ黒いごぼうね」と納得し、それ以上考えることもないでしょう。「私の知ってるごぼうの黒いやつ」で終わってしまうと、実は中は真っ白だとか、煮物にはせずサラダなどにするとか、白アスパラガスのようだとか、そういう知らない世界に触れる機会を逃してしまいます。それはもったいない。それに、語の響きがいかにもドイツ語らしくておもしろい。
そういうわけでここは、「シュヴァルツヴルツェル」という言葉をそのまま活かしました。
本書には「パチパチリコリスキャンディ」「マスタードグリーン」など、訳者の怠慢ではと思われる説明不足の単語がいくつか残っています。新しい概念に出合い発見する楽しさは、この本を読んだ人のものです。
文章構造がちがうのに... 苦悩の固定レイアウト
一番苦しんだのは、本題ではないところの制約でした。
この絵本の愉快さのひとつは、文章とイラストが一体になっている点です。文章の中の単語が丸で囲まれて、吹き出しになり、イラストにつながっているのです。原書では、英語の文章の中から矢印が飛び出ています。
英語と日本語では、文章構造も単語の長さも違います。当たり前ですね。しかしここで困ったことが起こったのです。この丸と矢印のデザインが動かせないということが、途中でわかったのです。英語の構造に日本語をあてはめなければいけません。それも、内容は損なわず。かわいなと思っていたデザインも、もはや鬼にしか見えません。これが、地味に大変だったことナンバーワンです。
もうどうやって乗り越えたのかまったくわかりません。元の文章が生きる日本語の言い換え表現をひねり出し、時にはデザイナーさんがミリ単位の調整をしてくださり、編集者さんと星乃珈琲店で5時間唸り、最終的には原書の躍動感そのままに日本語にすることができたと思っています。
お手元に本が届いたら、時々文字が微妙に大きかったり、少しだけ隙間があったり、そんなところも笑って楽しんでいただけたら幸いです。
眺めて、読んで、楽しんでほしいです。世界の市場から感じるものは多いはず。
裏話はその他にも山ほどあって、
書かれている市場の情報が本当に正しいのか確かめるべく、掲載店舗の来歴や市場の歴史まで遡って調べたり、
モロッコ訛りのアラビア語表現を、カタカナでどう発音表記するのか確かめるために大使館に問い合わせたり(私ではなく編集者さんが。執着がすごいです)、
掲載されているすべてのレシピを実際に作ってみたら、「酢が作り方に登場するのに材料に書かれていないじゃん!」とわかったり、
魚やじゃがいもの品種など、日本語が存在しない食材を表現するのに唸ったり…
でもそんなことは苦労とも思わないくらい、ずっと楽しい翻訳作業でした。デザイナーさんも編集者さんも、私以上の情熱を注いでいます。
そもそも私がお声がけいただいたのは、世界の暮らしの文化背景まで汲んで日本語にできることを期待いただいてのことでした。私の各地の台所や市場での経験は、すべて投入しました。24の市場の人と暮らしが、あなたに生き生きと感じてもらえることを祈っています。
世界の市場を歩くように、気になったページから開いて、自由に探索してください。新しい世界との出会いが、ありますように。