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仕事について考える
新月にはまだもう少し時間があるけれど、今なぜだか書きたい気分なので、書いておこうと思う。書きたい時に書く、書きたくない時には書かない、だから私はいつまでもアマチュアで、だから書くことを止めずにいられるのかもしれない。
最近、仕事についてよく考える。
現在のわたしの仕事は、Nafsha運営の全般に関わること。リノベーションのあれこれから始まり、コンセプトや運営方針、それらを実現するための具体的なプランとサービス考案、日々の発信…。説明のために文字に起こしてみるとなんだか大層なことをやってるようだけど、これらの仕事(作業)の全てにお金が発生しているかと言えば、もちろん“NO”。宿泊業は泊まっていただいてはじめて、対価が発生する。
現状を勤めていた頃の感覚に直接照らし合わせてみると、いたたまれなくなる。いくらにもならない作業を、心血注いでやっている。自分のちょっとした「ま、いっか」がそのままダイレクトに事業に響いてしまうので、手掛ける作業や仕事の全てに神経を注がなければならない。
でもどうしてだろう。これがそこまで苦じゃない。お金になる保証もないし、自分がどんなに頑張ろうが伝わるとは限らない。作業量や気を遣わなければならないことは圧倒的に「増量中!」なのに、心が摩耗していかないのだ。
誰かに頼まれたのでもなく、ただ「自分がやりたいから」だと思う。月並みな言い方かもしれないけど、シンプルにそれが答えだと踏んでいる。
わたしは、誰かに頼まれたから投稿用画像を作成したり、PR冊子を制作したり、リノベしたり、Webつくったり、写真を撮ったり、掃除したり料理してるわけじゃない。ただそれが「やりたい」からやっている。何のために?それはNafshaがもっと素敵で、心地よく、訪れた人を癒せるような場であるためだ。もっと言えば、そういう“場”がこの福島に、岩瀬に、絶対に必要だと強く思うからである。
私がNafshaのことを考える時間は一円にもならないけど、その一分一秒の全てが、ダイレクトに私の血となり肉となる。私がどんなに頑張ろうと誰かが評価してくれるわけではないけど、その代わり誰の言葉も気にせずに自分の理想を追うことが出来る。もちろん“世間の目“というアノニマスで最強な評価視点が存在するのは知っている。だけど世間様が私たちに一銭でも払ってくれているわけではないので、気にする必要性はそもそもない。それよりも恐ろしいのは、声を失うことだ。自分の声がどんなだったか、何を語るべきかを見失ってしまうこと。そしてもっと恐ろしいのは、声を失っていること自体に気づいていないこと。
私は昔から割と真面目できちんとしてて、優等生タイプだったと思う。成長するにつれ社交性も身につけて、大人になって航空会社に勤めてからは、会社やグループ、組織といった中で自分が求められている役割を察して、それなりに合わせてこれたところもあった(個性は強めだったけど)。
でも今振り返ると、私はそもそも会社という組織の中で働く、ということに向いていなかったのだと思う。個性が強すぎるからじゃない。「合わせられ過ぎる」からだ。
接客業が特に、なのかもしれないが、組織の中で働く上では“察する”という身体機能が結構大事だったりする。何かが起こる前に「あ、これはまずいかも」と“察して”、先回りをする。この状況から見て想定できるシナリオはこれとあれとそれだから、それぞれに対応できる準備をしておく。この場ではこういったキャラがいると和むだろうから、演じてみる。こう言ったら議論が進むだろうから、投げかけてみる。程度の差はあれ、社会生活を送る上で皆やっていることかもしれない。だけどそこが落とし穴なんじゃなかろうか。
「会社勤めが合わなかった」というのは、単に集団行動が苦手とか、社交性がないとか、個性が強すぎるとか、そんなことばかりが理由ではないように思う。「合わせられ過ぎる」ということも十分に隠れた要因のひとつで、そして知らないうちに多くの人ががかっている、現代の病気かもしれない。私たちは「合わせる」ということが“良いこと”だと教えられてきた。ルールは絶対、足並みを揃えるのは当たり前、自分だけが特別じゃない、みんながそうしているから…。だけどその実態のない「組織」や「世間」というマスターの元で優等生であることの中に、”あなた”という存在は一体どれだけ残されているだろうか。本当の「合わせられる」や「調和」というのは、個々が個々らしくあれている時に、はじめて生まれるものなのに。
私は今、自分と自分のつくるものが段々と近づいて来ているのを実感している。矛盾を感じない。ねじれを感じない。もちろんとは言え生活をしなきゃという切迫感はあるし、実際きちんとビジネスとして成り立たせるまでが自分の仕事だと思っている。だけどいつも健全でいられる。いつでも「わたしはわたし」で、それは悩んでいても怒っていても泣いていても笑っていても喜んでいても、“わたしそのもの”でいれる、ということだ。嫌なことは嫌、好きなものは好きと、堂々と感じられる。誰の顔色も伺わずに、自分の声で、はっきりと、言える。仕事って、そうゆうものじゃないかな。一人ひとりが「わたし」として気持ちよく存在していられるから、”いい仕事”が生まれて、”いい会社”ができる。そうゆう順番なんじゃないかなと思う。