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雨あがりの夕暮れどき        ~週3日往復3時間のエクササイズ~

梅雨の最中の晴れ間。久しぶりの昼日中のおひとりさまタイム。社会の流れに乗らず、ケーブルテレビに惑わされず、家族の喧騒に巻き込まれず。久しぶりの午後のひととき。Fred Herschのピアノ聴きながら最近の身のまわり・身の処し方に思いをはせる。

「一緒に何かしましょう」と言われて3年?学びなおしをして、事業所に努めて、その違和感を改善したく自分でNPOを立ち上げた友人。その言葉にほだされて。しかしわたしにとっては手探り・手探りどころではなく、どこまで信用していいのやら・ということは信用はそこにはなく。そしておおよそわたしの通勤時間などお構いなしに決められた場所に通っているのはなぜか?わたしはどうしてそこへ行っているのか?3カ月が経っても明確な意味・意思が見当たらない。

彼の言葉は信じようもなく、絵空事・ファンタジーの域を出ない。自身に都合の良い解釈、監理者とのかみ合わない対話、ポジティブに聴こえるがそこには根拠があるのか?あったとしても彼の言葉では語られない。語ろうとしない。不都合に向き合わず、自分で確かめても周知しない。故に具体的に何が起こっているのかわからず、明確な改善策も聞こえず見当たらない。  このままでいいのか。

いずれにしても、経済活動に乗っかってしまう福祉事業所。その方向性はあり目指すところはあるが、それに至るプロセスについて丁寧さや敬意が感じられない。不具合がある時向き合うことをせず、言葉だけを残して周りに委ねる。そこに発展や実現はやってくるのだろうか?

zoomの会議に氏は参加せず。しかし画面の向こうのK氏はなぜ氏がいないのか?という感じでいる。いくら所長であっても、いくらK氏と詰め決めていたとしても、そこに居て皆が理解しているのか自分で確認すること、そこでみんなにちゃんと伝えようとすることの責任があるのではないだろうか?

それ以前にE氏とかみ合わない問答のこと、「伝わらないのはショックだった」とのこと。これは自分の言うことは伝わって当たり前、との土壌の上にいる。もっと言えば自分の言うことは正しい、が前提となっているのではないか?もうひとこえすると自分の言うことをきいて当たり前の手前かもしれない。

事業自体の成り行きはまだまだ分からないけれども、始まって3か月の時点で所長にこのような特徴があること、それをわたし自身が改善しようとしないこと、他の誰かも改善しようとしないこと、により、わたしはすでに離れることを考えている。最初から及び腰であったことが肯定されてしまう。

わたしは60歳である。この齢にして「一緒にやろう」ということは何か役に立てるのかもしれない。という想いと、初めての国家資格を取得して、そのもとに仕事をして行くことに自信がなかった。せめて顔見知りの中で少しでも体験的なことができればと思い、此処へ通う事を選んだ。この3カ月、家族の協力もあり、無遅刻無欠勤で人生初の往復3時間の通勤をしている。しかし、この無遅刻のために使われる労力の多大なこと。帰宅後の忙しさ。これは週3日であっても、60歳の往復3時間にはきついのである。そして先のような職場の状況。主に所長に責任があると考えるが、本人に誰も言わないし、言ったところで通じなさそうである。

わたしは以前よりこの資格を活かして、オープンダイアローグや家族支援をしてみたいと考えていた。この3カ月間のエネルギーの使い方、自分のやりたいことへのアクセス、現在の年齢と健康状態を観が見たときに、先の職場の様子を合わせて考えると、おのず見えてくる道程がある。

他方。こころとからだは表裏一体。「こころがからだを引っ張る」は初めて参加したヨガ教室で聞いた言葉で、その時いたく自分の反省を促した。このこころもからだも現在は元気である。1つには。大阪市内の街中から。山が視え、田植え後の田んぼのみずみずしさが目に入る通勤地Kに通う愉しさがある。この緑の多さはわたしの癒しである。しかし、往復3時間の通勤時間は仕事における1日の拘束時間が12時間に至る長さである。家事や他のことができない状態にある。これらを犠牲にしてまでする仕事か。

現在・迷宮入りしている。及び腰の半日拘束である。これについて冷静に向き合い、考えてみたい。

読んでくださって多謝。




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