読書で「知を織(お)る」ということ
知識について、興味深い考察を読んだ。
特に印象的な部分はここだ。
私は、知識とは、知の織物「知織」だと考えている。他の知識と断絶した知識はない。たとえば「鉄」を理解するには、真夏の太陽に照らされた鉄は火傷するほど熱いといった体験や、逆に冬には凍てつくほど冷たかったり、電気が通ったり、フライパンを熱して湯気が出たり、磁石がくっついたり。
濡れるとサビたり。包丁のような刃物になったり。そういった諸々の周辺的事実の結節点として、私たちは「鉄」を初めて理解する。知識とは知のネットワークを形成することであり、ことばを覚えるとは結節点に名前をつけることであり、理解するとは、その結節点が何とつながってるかを知ること。
「勉強の苦手な子」が、説明を一度されただけでは理解できなかったり、場合によっては何度説明されても理解できないのは、その言葉を受けとめるべき体験ネットワーク、知識ネットワークが欠如してるから。何も受け手のないところに投げても落ちるだけ。大切なのは、受けるネットワークの構築。
新しいことを覚える時、「それってつまり○○みたいなことだな」みたいな置き換えや関連付けができるか、あるいは対象の物事に対して「へー!そんなもの(あるいは考え方・視点)があるのか!」みたいな驚きがないと、身につけることが難しい。
だから何だという話なのだけど、ここ2年くらい読書量がどっと増えたのは「受けるネットワーク」としての知識が増えてきたからなのかな、と思う。
以前は読書といえば小説、しかもほぼ純文学しか読まないというスタイルだった。
日本文学科卒という自らの経歴もあり「書といえば文学」みたいなイメージがあった。
でも、2年前くらいから人文学系の本をどんどん読み始めた。
キッカケはよく覚えていないが、佐々木俊尚さんのTwitterをフォローし始めたのがキッカケかもしれない。
関連して流れてくる学者アカウントをフォローしはじめたのもこの頃で、コロナ禍の不安を人文知で埋めようとしたのかもしれない。
いずれにせよ、コロナ禍に比例して私の読書量はものすごく増えた。
小説は減り、人文学系の少し難しい書籍が増えた。
そうすると、それぞれの本に少しずつ関連性を見出せるようになり、読めば読むほど「これってあの本にあったアレに似てるな」みたいなことがどんどん増えていった。
この流れでたまに小説を読むと、小説に描かれた世界観が違った景色に見えるような体験も増えた。
「世界を多面的に見る」という「受けるネットワーク」が構築されたのかもしれない。
読書量がある程度ある人は、私と似たような体験の面白さを知っているだろう。
でも、本を読まない人にこの魅力を伝えるのはとても難しい。
多分この文章も、本を読まないタイプの人には届かないだろう。
知識が増えていくのは面白いし、役に立つし、時には生きるのを助けてくれる。
知識を増やすには、他者の世界観を体系として掴むことができるという意味で「本」が最強だと思うのだけど、これも結局は本好きの理論でしかないのだろうか。