私は、私のままで
※この記事は2019年9月に別サイトにアップしたものを加筆修正したものです。
先日、ゆうこす(菅本裕子)さんのトークイベントに行ってきました。
イベント後に感じた言いようのないモヤモヤ感。
その謎を解くために、この感想ブログを書いています。
「モテクリエーター」の肩書で10〜20代女性から人気の彼女ですが、彼女にとって「モテ」を全面的に打ち出すことは〈ニッチな弱者向け〉と思っていたそうです。
あえてニッチな層を狙った理由は、大きな熱量を持つコアなファンを生み出せると思ったからということでした。
でも、なぜ「モテたい=弱者」なのか。
ゆうこす曰く、学校でモテたいのがバレると「ぶりっ子」の烙印を押され、スクールカーストの最下層に追いやられるのだそうです。
カースト上位はぶりっ子を敵視するサバサバ女子。
男子にモテたいなんて言おうものなら、サバ女から大バッシングを受けるので、ゆうこすはひた隠しに過ごしてきたのだとか。
でも、本当はモテたい。
男子からチヤホヤされたい。
それがぶりっ子なら、むしろぶりっ子バンザイ!
そんなスタンスで発信し続けて「ネオぶりっ子」という称号を得たゆうこす。
ネオぶりっ子は誰からも愛されたいから、男女で態度を変えたりしない。
だからこそ、同性からも支持されるのだそうです。
そんな一連のトークを聞きながら「そうかなるほど、ネオぶりっ子いいなあ!」とはならなかった私。
むしろ、ぶりっ子を叩く側の心理に思いを馳せてしまいました。
ぶりっ子を叩くサバ女たちは、本当にモテることに興味がなかったんだろうか?
*
私は40代、数年前までバリバリのこじらせ女子でした。
「愛されたのに、それを表に出せない」という部分は「ネオぶりっ子」と少し似ています。
ただ、決定的な違いがひとつ。
ネオぶりっ子はサバ女に対抗するために生まれた概念ですが、こじらせ女子は男性からの目線を過剰に気にしてるということです。
可愛いと思われたい。
そんなことを言ったら最後「甘ったれるな」と罵倒され、「コレだから女は」と切り捨てられてしまう。
そのくせ、結局「若い愛されぶりっ子女子」にみんな甘いこともわかっているから、そうなることすら許されなかった自分を呪いながらサバ女(サバサバ女子)を演じ続ける。
これぞ哀しき、こじらせ女子。
「こじらせ女子」は、主にアラフォー。
いわゆるロスジェネ世代にかぶります。
就職超氷河期をくぐり抜け、なんとか就職したものの。
苦労して就いた仕事を手放さないために懸命に働いた多くのロスジェネ女性は、職場で多くのジェンダーストレスにさらされます。
少しでも弱みを見せれば「女は使えない」と嫌味を言われる。
仕事の邪魔になるから、女を封印してバリバリ働く。
いつの間にか、会社内で女として扱われなくなる。
仕事のためだからこれでいいんだと思っていたのに、気づけば氷河期は終わっていて、がむしゃらに仕事に打ち込まなくても許される世代に時代は変わりました。
自分だって本当は女なのに、もはや誰も私を女として扱いません。
甘ったれるのが許されなかったあの頃には考えられなかったような、愛されることを全面に打ち出した20代の女の子たちばかりチヤホヤされるばかり。
でも、今更「私だってみんなから愛されたい」なんて言っても、誰もこんな若くもない女のことは相手にしない。
モテたいなんて、言えない。
仕事柄、アラフォーこじらせ女子の婚活相談を受けますが、こんな悲痛な本音が垣間見えるのです。
*
愛されたい。
そう思うのは人として当然の欲求です。
たくさんの人からモテたい気持ちはその延長だろうし、それで安心したい気持ちもわかる。
じゃあ、モテればすべて解決するのか?
私は、そうは思わない。
モテるためのメイクやファッション、振る舞い方。
それらを無理して身につけてモテても、どこかの時点でむなしくなる。
本当の自分が損なわれていく気持ちになるだろう。
それよりも、自信を持って「これが私」と言えるほうがどれだけラクで魅力的か。
例え自信を持てなくても、モテなくても、こじらせてると言われても、結婚できなくても、ダイエットに失敗しても、「そんな時もある、それも私」と肩肘張らず人と比べずいられたら。
それは、キラキラした人生じゃないかもしれない。
人が羨むような幸せでもないだろう。
でも、それでも、いいじゃないか。
目立つことは、幸せとイコールじゃない。
「すべての人からモテたい」を全面的に謳うゆうこすに対するモヤモヤは、結局私がこじれてるからだとは思うけど。
それでも私は、「私のままでいいじゃないか」と言い続けたいのだ。
(この記事は、こじらせ女子という言葉の生みの親である故・雨宮まみさんのこのエッセイのことを思いながら加筆しました)