結局ふりだしに戻るしかない
「写真は、ありのままを写しません」
私がオンラインで行う写真の写り方講座でよく言うセリフだ。
写真は対面と違って、色々な情報が抜け落ちる。
声も聞こえない、動かない、場の匂いやざわつき、気配のような雰囲気もわからない。
何より対面だと流れる時間を共有するのに、写真は一瞬を切り取って固定する。
これだけ色々な要素が失われる写真が、ありのままを写すわけがない。
ZOOMのようなオンラインはどうか。
動くし、声や場の音も聞こえる。
時間の共有感はある。
でも気配や雰囲気はうまく掴めないし、解像度が悪かったりするし、何より2Dで触れることができない。
じゃあ、触れて匂いもわかれば、オンラインも対面と変わらないのか?
メタバースは多分そういうことを目指しているのだろう。
でも、変わらないわけがない。
どんなにリアリティーを追加しても、それはリアルじゃない。
どんなにリアルに見えようが、モニター越しの画が目の前にあるものと同じになるわけがない。
どんなに精巧なVRも、本体がリアルで死んだら全て失われる。
だからリアル→VRという従属関係は不可逆だ。
仕事や社会的な機能はオンラインでも可能になるだろうが、リアルと真の意味で同列上になることはあり得ない。
だとしたら、リアルをどうするかに帰ってくるしかない。
オンラインではない目の前のもの、リアルに関わる人たち、環境をどう豊かにし、整えるか。
結局ふりだしに戻るしかないと思うのだけど、そこのところザッカーバーグはわかってるのだろうか?
(この記事はヤンデル先生のこのブログに触発されて書きました)
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