ショートカットじゃわからない
「よく知りもしないくせに」
「どうせあなたに私の気持ちなんかわからない」
誰かから投げかけられた言葉に対して、そこに共感や寄り添いがなかったり、あるいはあまりに非現実的なアドバイスをされた時、人はしばしばこんな風に反論する。
この現象は、もう少し論説的な表現をすると「当事者視点がない」ということだろう。
現在、当事者視点の欠如は非難の対象になりやすい。
それがわかっているからこそ、例えば「鬱の人に“頑張って”と言ってはいけない」というようなコミュニケーションのハウツーが求められる。
でも、果たしてどんなことでも当事者視点を持ち、共感・寄り添いしていくことがマストなのか?
先日視聴したこのトークイベントで、磯野さんがこんなことを言っていた。
(私的な要約なので、イベントを聞いて「これは違う」と思った人がいたら指摘してほしい)
例えばボクシングの場合、もしコーチが試合中のボクサーの痛さ・苦しさがわかってしまったら、檄を飛ばすことなんか出来ない。
本人が痛みや苦しみを抱えていても、なお「その先」を望んでいる場合、それを理解している他者が掛ける声かけは「励まし」や「問い」になる。
磯野さんの言及は、当事者への共感や寄り添いではない。
にも関わらず、当事者は良い方向に進んでいる。
では冒頭のような「よく知りもしないくせに!」と反論したくなるケースと何が違うのか?
多分、当事者が「今、何を望んでいるか?」の違いだろう。
どうなりたいかわからない、でも今よりも何か良い方に向かいたい。
そんな時は共感や寄り添いではない第三者の言葉が新たな可能性を拓く。
逆に当事者が「つらくて先のことなど考えられない」という状況なら、共感や寄り添いが必要だろう。
大事なのは、当事者が「今、何を望んでいるか?」を理解することだ。
それをしようとせず、何でも共感して寄り添えばいいという風潮は乱暴だし、危険な思考停止だと思う。
コミュニケーションのハウツーがもてはやされるのは、当事者の気持ちを読み取ろうとするプロセスを省こうとしているように見えてしまう。
人間関係の構築は、丁寧に行うべきものだ。
観察と対話を省いて、正解だけを最短で求めるようなやり方で出来るものではない。
…と思っているのだけど、こういう当事者視点もまた、あまり理解されないのかもしれない。