それはほとんど見送る準備
どうも「終活」という言葉がしっくりこない。
正確に言うと「就活」「婚活」のような「○活」という言葉があまり好きではない。
誰かが言っていたが、○活は想定される理想のルートがあって、そこに乗らなければいけないイメージがある。
それが大変気に入らない。
昭和の日本ならともかく、今の時代にそんな考え方はそぐわない。
でも、一方で○活という言葉はとても便利だ。
特定の目的に対してアクションを起こすことを熟語ひとつで表現できる。
元々は就職活動の略語として就活と言い始めたようだが、その後あらゆる○活という言葉が広まった。
業界主導で消費者心理を煽るような目的もあるようだ。
(参考: https://style.nikkei.com/article/DGXNASDB11001_R11C12A2000000/)
○活は定義が幅広い。
例えば就活。
資料集めやエントリーという実際の作業以前の、学生生活を通して先輩とコネクションを作るとか、アピールできるように学生のうちに何かポイントを絞って成果を書ける活動をするとか、そういうことも就活と言えなくもない。
終活もしかりで、エンディングノートを書く以前に家族と何でも話せるようにコミュニケーションを取るとか、そういうことも終活には必要だ。
となると、生きている限り何かしら○活に関わることになる。
(だから「生活」というのだろうか?)
でも、私たちはそんな事をずっと考えながら生きてるだろうか?
何かの目的達成のために日々を過ごしてるんだろうか?
そんなわけない。
少なくとも私は。
生きることは、タスクや目的で全て区切られているわけではない。
生きることは、もっと曖昧だ。
境界がハッキリしたものもあるが、それは物事を大きく転換しなければいけない時に限定される。
(そういう時、人は何かしらの儀式を必要とすると思う。例えそれが仲間内の打ち上げのようにささやかであっても。)
人間は疲れていたり、弱っている時ほど二者一択のような極端な思考に走る。
曖昧なまま考え続けるのは、気力/知力/体力を消耗するからだ。
だからこそ、○活のように目的に行動を集中していくような言葉が流行るのだろう。
それだけではなく、実際タグとして○活という言葉は便利だ。
何かをしたい、それに関する情報が欲しい。
そんな時はわかりやすいタグがあると見つけやすい。
検索に引っかかりやすいという意味でも○活という言葉の利便性は群を抜いている。
○活という言葉は好きじゃないけど、この利便性に勝るものは今のところ思いつかない。
現代に生きる私たちは、便利なタグ付けから逃れることは出来ない。
でも敢えて、だからこそ、私は言葉の定義に拘りたい。
「終活」にモヤモヤするのは、それが指す具体的な内容が「遺された家族等に迷惑をかけない」という主旨によるものが多いからだ。
お金のこと、葬儀のこと、お墓のこと等々…。
これらは全て自分の死後に別の誰かがやることだ。
一見自分事のようだが、実際は他人事なのだ。
だからしばしば終活の失敗例として、故人の遺志が遺族のニーズと合わずに揉める話を聞く。
遺言書が指示する遺産の分配に納得がいかないとか、子供のためにと墓じまいをしたら却って子供から怒られた等、シニア向けのメディアではよく目にする話だ。
私は、自分の死後に遺族がやらなければならない事柄については、実際に処理を行う遺族が「見送る準備」として本人を交えて行った方がいいのでは?と思う。
終活というよりは、送活とか葬活とでも言えばいいのかもしれない。
主体となるのはあくまで見送る家族だ。
結局のところ事務的な処理は全部「送る準備」なので、本来は家族主体でやることだ。
(もちろん、おひとり様のようにこれに該当しないケースもある)
だとしたら「終活」とは?
それは、死にゆく自分とどう向き合うか?という問いを追求することだ。
もう少しマイルドに言えば、老いや病との向き合い方と言ってもいいかもしれない。
老いや病を得ると、こういう答えのない問に苦しむ。
苦しさに耐えきれなくて自死してしまう人すらいる。
これに対峙する智慧を得ることが本当の「終活」なのではないか?と、私は思っている。