喪失を受けいれる
「ああ、あの時がピークだったな」
そう思うことが少しずつ増えてきた。
「もうおばさんだから」
「若い子には勝てないわー」
みたいなことは当たり前によく言っていたけど、内心(私だってまだいける)と思っていたような気がする。
それが昨年あたりから「こうやって少しずつ出来なくなるんだ」と本気で思うようなことが増えた。
おそらく身体がプレ更年期で色々とままならなくなってきたせいだろう。
身体性はいつだって現実を突きつけてくる。
痛いおばさんにならないために、出来ない自分を受け入れなければいけない。
少しずつ喪失していく体験は初めてのことで、想像していたよりもずっと苦しい。
ハッキリと「あの時が伸びるチャンスだった」と思い至ることも増えた。
機会は確かに与えられたのに、私はそれをモノにすることが出来なかった。
出来る努力はしたはずだから、それは私の実力の限界だったのだろう。
「いくつになっても成長できる、だって経験値が増えるのだから」
意識高い系がSNSで声高に叫び、成長を諦めた者を見下す。
確かに経験値は増えるが、それが成長と言えるだろうか?
経験が邪魔をして素直にインプット出来ないことだってどんどん増えていく。
経験値は必ずしも良いものではないのだ。
ああ、でもこうも思う。
生老病死は、生まれた以上どうしてもいつかやってくる。
喪失は、老いそのものだ。
喪失をひとつ受け入れたら、それは執着をひとつ手放したということではないだろうか?
能力は、いずれ失われる。
そう決まっている。
それでも目の前のことに対しては最善を尽くすべきだろうけど、それと「喪失を受け入れること」は両立するはずだ。
流行りの言葉で言うなら「メタ認知」とでも言えばいいだろうか。
色々出来なくなった自分でも出来ることを考える。
この視座に慣れるのに、もう少し時間がかかりそうだ。