人と会うことは殴り合いだ。それでも。
コロナ禍で、人と会うことは随分減った。
オンラインが充実するようになって、会う手間が省けるようになった。
「会う」ということは、手間である。
そればかりではない。
会うことは、暴力性を孕む。
この言葉は、斎藤環さんの受け売りだ。
人と人が出会うとき、それがどれほど平和的な出会いであっても、自我は他者からの侵襲を受け、大なり小なり個的領域が侵される。それを快と感ずるか不快と感ずるかはどうでもよい。「出会う」と言うことはそういうことだし、そこで生じてしまう“不可避の侵襲”を私は「暴力」と呼ぶ。再び確認するが、この暴力はいちがいに「悪」とは言えないし、あらゆる「社会」の起源には間違いなく、こうした根源的暴力が存在する。暴力なくして社会は生まれない。
確かに、と思う。
人と会うことは、何かしらのエネルギーの交換だ。
それは確実に体力を奪う。
交換で済めば友好的だが、場合によっては投げる・受け止めるという攻守になり、時として一方的に的になることもある。
こうなるとまさに暴力的だろう。
だから、どうしても攻守またはそれ以上のやりとりが必須であろう仕事の上では、「もうオンラインでいいじゃん」という流れになるのは尤もだ。
テレワークをやめたがるのは大抵上司や管理職だが、それは彼らが投げる側にいるせいだ。
受け止める方はたまったもんじゃない。
仕事のような等価交換で成立する関係は、正直会わなくてもいいと思う。
(これは会うことの否定ではない。ケースバイケースなのはもちろんだ)
でも、そうではない、関係性や繋がりを重視する相手なら、会わなければ得られない何かがある。
会わなければ得られないことは何か?
斎藤環さんの言葉を借りると、こうだ。
あらゆる関係性は非対称である。
(中略)
人間関係の非対称性は、身体抜きには成立しないからだ。
(中略)
そうした差異を前提として、苦痛や感情が共感され、文脈と意味が共有されること。そうした共振れは、有意味な対話の成立にはほぼ不可欠なのだが、オンラインではそれができない。
ZOOMで均等に並ぶ顔を見ても、それは単なる記号に過ぎない印象だし、なにより目が合わない。
声も微妙な時差でニュアンスが振り落とされる。
ましてメールのようなテキストだけだと、その言葉が出てくるまでにどんな逡巡があったかわからない。
いずれにせよ印象は均一化され、個性は削ぎ落とされていく。
身体を持って「会う」ことは、お互いが違うことを否が応でも意識せざるを得ない。
どこをとっても違う身体を意識することで、その場の攻守が目まぐるしく変化する。
違いを意識しながら、それでもなおこの「場」を保とうとすること。
これが関係性の構築の正体だろう。
「オンラインでいいじゃん」
「メールで充分」
「やっぱり会いたいよね」
矛盾するようだけど、今の私はこれらが全て入り混じっている。
オンラインでしか会っていない/テキストでしかやり取りがない相手でも、大事だと思う人にはいつか会いたい。
でも、そこまででもない人とはギリギリまで会いたくない。
(だから、付き合いだけで人に会うことは極力避けたいし、オンラインで済む仕事はオンラインで完結させたい)
多分、コロナ禍が過ぎてもこの気持ちは変わらない。
「会う」って、これからはとても特別なことになるような気がしている。