いつも私たちは「今」にいない
週末に受けていた講座で、スピリチュアルケアの想定問答演習があった。
設定は、被支援者はALS患者の女性。
徐々に病状が進行中で、現在は寝たきり、まだ発話出来るという設定だ。
「もう逃げ出したい!」
という彼女になんと言葉をかけるか?という演習で、なんとか私が絞り出した回答は
「逃げ出せたらどうなると思いますか?」
状況をリアルに想像すればするほど、かける言葉などないように思えた。
弱い相槌が精一杯のような気がする。
でも、支援者として現場に入ったら、何か発話すべきなのかもしれない。
そう思って考えたのが先の答えだ。
正解はない。
でも、これは多分ダメな回答だ。
なぜなら、この質問は未来を見ているからだ。
カウンセリング、コーチング、そしてスピリチュアルケア。
この3つはすべて依頼者の話を聞くことが仕事だが、話の方向性が全く違うそうだ。
カウンセリングは、過去の話。
コーチングは、未来の話。
そしてスピリチュアルケアは、今の話。
確かにその通りだ。
カウンセリングは過去にあったことを思い出し、整理し、再構築し、新たな意味づけをしていく。
コーチングは過去を整理しながら自分がどうなりたいかを考え、目標を設定し、そこに向かう方法を考える。
私は仕事でコーチングをやっている影響で、話し方が未来志向になりがちのようだ。
ほぼ自覚がなかったが、このクセが演習で出てしまった。
未来が残り少ない人に向かって未来志向で話すのはあまりにも残酷だ。
スピリチュアルケアで必要なのは、一緒に「今」に留まり、分かち合うこと。
未来が閉ざされているからこそ生まれるつらさを、ただ受け止めることが大事なのだろう。
「今」に留まることはとても難しい。
ぼーっとしているようでも、考えているのは大抵未来のことばかりだ。
あれがしたい、これが欲しい、あの人に会いたい。
どれも未来のことばかりだ。
身体性が伴う行為をしている時は、「今」を感じやすい。
運動をしてれば、体が疲れを感じる。
食べれば、味を感じる。
音楽を聴く。
においを嗅ぐ。
何かを見る。
五感を使うと、「今」は確かにここにあると感じられる。
ところが、なぜか思考と会話はそうはいかない。
会話は相手がいるにも関わらず、だ。
大抵の会話は、お互いが考えたことを発言し、そのやりとりからまた考え…の繰り返しだ。
発言の間に挟まれた思考が「今」を感じていなければ、話はどんどん「今」から離れていく。
思えば、会話をしながら相手のことをちゃんと見ているだろうか?
声を聞き、表情や態度を見ているだろうか?
「今」を共有している相手のことを、私たちはどのくらい感じているだろう?
「今、ここ」
アドラー心理学で散々言われているこのフレーズ。
頭では理解していたつもりだったけど、それが何と難しいことか。
しばらくの間、「今」を感じる練習が必要かもしれない。