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恋しいのは寿司や天ぷらではなく余ったおかず

 日本に戻ってきて、約二週間経った。

 高い湿度で、気温は低いのになぜか汗ばむ空気も、梅雨の曇天も、寝てばかりで人懐こい実家のゴールデンレトリバーも、先月もそこに存在したかのように、なんの違和感もない。

 ラトビアに約一年住んで、すっかり髪がギシギシになってしまった。実家のシャワーで髪を洗ったら、ラトビアにいた時のギシギシ感が半減した。

 特に何かケアをしたわけでもないのに、水が変わるだけで、髪質が変わって、やっぱりお腹の中にいたときから摂取していたものの馴染みには勝てないのだな、と思った。

 そして食事。日本食というと、寿司、天ぷら、らーめんなどが海外でも市民権を得ている。

 ラトビアの首都・リガにも、いくつか和食レストランがあったけれど、結局一度も行かなかった。

 一度だけ、ラトビア滞在1ヶ月後に突如風邪をひいて、その快復記念にスーパーでお寿司を買ったくらい。

 持ってきたふりかけや、送ってもらった調味料を使って、馴染みのある味付けの作り置きを自炊していたら、レストランで高いお金を払って日本風の食事を食べるより、心なしか満たされる気がした。

 地元の食事への恋しさは、異国で暮らす人なら多かれ少なかれ、誰しもが感じたことがあると思う。

 「もう2度と母国の食事は食べなくても平気だ」という人も稀にいるんだろうけど、少なくともわたしは無理。お味噌汁飲みたい。おつけもの食べたい。つやつやの米、食べたい。

 母国の食事への恋しさをいだくとき、脳裏に浮かぶのは、寿司、天ぷら、らーめん、ではなかった。

 わたしにとっては、冷蔵庫の残り物で作った名もなき料理が、夢に出てくるほど恋しかった。

 ラトビアでも、みりん風調味料や醤油は手に入る。お味噌だけは日本から赤味噌を持参した。

 だから、恋しくなったらいつでも「名もなき料理」は作れるのだけど、なぜか少しだけ何かが足りなかった。

 ただの野菜炒めでも、ワンパン料理でも、材料を切っだけの煮物でも、使っているものは大きくは変わらないのに、なぜか日本で作る名もなき料理ほどの安心感は得られなかった。

 一人、ソイミート(大豆でできたお肉)で親子丼を作って食べているとき、その理由を考えて、「やっぱり食事は誰と、どこで食べるかを含めて成り立つものなのだ」とぼんやり思い当たった。

 一人で食べる食事でも、適当に一皿に盛り付けて、椅子に浅く腰掛けて(時間がなければほとんど立ったままな時もあった)かきこむ食事と、彩りよく盛り付けて、ちゃんと手を合わせて「いただきます」してから食べる食事では、満腹感がちがう。

 後者のほうがゆっくり食べるし、一人であっても、自分を他者のように扱うから、いつもより自分にも気をつかう。こそばゆいけど、苦しくはない。

 そして、水もまた、重要な素材なのだ。

 ラトビアの水は硬水で、日本の水より、ほんのすこし苦いような気がする。

 だから美味しくなる食事と、本来の滋味深さが損なわれてしまう食事がある。


 多くの食事・食材が、その地で生まれた物理的な理由があるし、森が水を作り出すように、時間をかけて馴染んでいった味があるのだと思う。

 水と、食事を共にする人と、場所。

 それらのバランスがとれた食事もまた、栄養バランスと同じくらい、大事なのかもしれない。

おまけ: ラトビアでよく食べたもの

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