なにものにも縛られない。縛られたくない。縛ってくれない。
善悪の判断とか
幸せの定義とか
お金がいっぱいあれば勝ち組なのかとか
結婚しないのは負け組なのかとか
都会が最高なのかとか
田舎の方がクリエイティブなのかとか
もはや、いろんなことが、二項対立では片付かない。
親と子ども、上司と部下、先生と生徒でも、価値観が全然違う。違うということが、きっとどんどん当たり前になっていく。
否、もとから甚だ違うものなのだけれど、まとまったひと世代ごとの雰囲気の違いが、80年代とか90年代という大きな区切りに収まりきらないくらい、もっと細分化されて、一年単位でどんどんどんどん変わってゆくかもしれない。
「どうして分かってくれないの?」
「言わなくても分かるでしょ」
いやいや、言わなきゃ分かんない。
なんなら、「そんなこと、言われても分かんない」ということだって、これから少しずつ増えてゆくだろう。
でも、想いを伝えるのは難しい。恥ずかしい。苦しい。
あなたの価値観を、押し付けないで。
あなたの正解で、わたしのことを測らないで。
わたしの心地よさとあなたの気持ち良さは違うから。
そんな、言葉にならない小さな歪みが、あちこちで暮らす人の心の中で生まれている、ような。
選択肢も価値観も、もはや何物にもくくれない。
その場その場の出たとこ勝負。対バン張って目の前の人と向き合う日々。
世代の定番で括られない。
誰かの価値観を強いられない。
それはなんて自由で、そして孤独な世界だろう。
何ものにも縛られないのは、身軽でいい。どこへ行こうと何をしようと自分次第でいかようにでも自由自在。
そのかわり、誰も守ってくれない。誰もレールを敷いて「こっちだよ」と教えてくれない。
ふわふわただよう、先行き見えないどっちつかずの魂の手綱を、誰も握ってはくれない。
何ものにも縛られない世界は、途方もなく広くて孤独だ。
「誰とも分かり合えない」世界は、いつもいつまでも孤独との戦いだ。
一人ぼっちなのは、みんな一緒なら、その世界で胸張って「わたしはこの道をゆく」と言いたい。
縛ってもらえない一抹の怖さをポケットに突っ込んで、「それでもわたしはこれを選ぶ」と笑って走って生きていきたい。
縛られずにたどり着いた自分の選択を、全うして、正解にしたいから。
縛ってくれない恐怖に呑み込まれるより、縛られない自由を謳歌したい。
縛られたにせよ縛られないにせよ、選んだのは、自分でしょう?
だったら、どちらかの世界に飛び込んだ自分を、祝福してエールを送ろうじゃあないの。
……自分大嫌いマンだったのに、なんだかだいぶ、変わったなあ。