エピラ(6)ろくでもないことが起きるきっかけは
前回のあらすじ
とある北の国と南の国の物語。豆の行商の途中、立ち寄った酒場でエピラと口論になり、左足を負傷したニカの父・シマテはエピラを毛嫌いしている。ニカが「足の怪我はエピラのせい」と言い張るシマテに、本当にそうなのかを問いかけるとシマテは動揺し、ニカに掴みかかった。
登場人物
ニカ: 南の国の第23集落に住む、12歳の女の子。
シマテ: ニカの父親。クル豆農家。第18集落で事故に遭い、左足を失う。
モカレ: ニカの母親。クル豆農家。
モアレ: モカレの母親で、ニカの祖母。足が悪く車椅子生活。
用語紹介
エピラ:南国で生まれ育ちながら北国へ移住した人、北国へ移住したが南国へ出戻りした人を指す。
娘の胸ぐらをつかんで、すぐ「しまった」とシマテは思った。ふたつの意味で。
ひとつは、自分が片足を失っている事実を一瞬忘れていたということ。
もうひとつは、秒速で上がった血の気に任せて、娘に、手をあげたということ──。
ニカの瞳を消し去るように勢いに任せたため体制を崩し、シマテは床に倒れ込んだ。
胸元をつかまれたニカも、一緒に引っ張られるようにシマテの横で膝をついた。
大きな音を聞きつけて、モカレが慌てて駆け込んできた。かまどで米を炊いている最中だったようで、走り込んできたモカレは蒸された米の、倒れた二人には不釣り合いな甘い蒸気をまとっていた。凍りついたように動かないシマテに、モカレは怒鳴り声を上げた。
「何やってるの!」
モカレは、小さく震えているニカを抱き上げた。ニカはぎゅっと両目を瞑っている。
「あんた、ちょっと頭を冷やしたらどうだい」
モカレは、力の抜けたニカを抱きしめたまま、床に倒れ込んだシマテを見下ろした。シマテはうつ伏せになったまま、何も言わない。ピクリとも、動かない。
モカレは、ため息をつき、微動だにしないシマテの腕を力づくで取り上げ、自分の肩に乗せた。そしてほとんど引きずるようにしてソファまで連れていき、その上に座らせた。荒々しい動きのようだったが、シマテをいたわる気遣いが、その一連の動作の中に見え隠れした。
「食事ができるまで、そこでおとなしくしてなさいな」
子どもに言い聞かせるように、モカレはシマテに釘をさすと、ニカの肩を抱いてキッチンへ戻っていった。
いつもそうだ、とシマテは思った。
自分の想定通りにいかないことに対しては、どうしても力づくでなんとかしたくなる。でも、そうするしか、方法を知らない。
──昔、初めてエピラに会ったときもそうだった。
ニカまだ生まれる前、シマテたちのクル豆の品質の噂を聞きつけた、第3集落の商人たちが商談に来たことがあった。
第3集落は、南の国の中でも一番北に位置していて、海に面する港町だ。北の国へ移住する者、もしくは南の国に戻ってくる者たちの玄関口になっていた。また、北の国との交易の要にもなっており、時にはエピラではなく、純粋な、北の国出身の者たちが、大勢で船で訪れることもあった。
第3集落の商人たちは、農地を増やして生産効率を上げ、クル豆をよりたくさん作れるようにしないかという交渉のためにシマテたちの家へやって来た。
その商人のほとんどは、エピラだった。5人組で訪れた商人のうち、南の国の住人特有の、艶のある黒い髪質を持つものは4人、うち1人は、エメラルドグリーンの瞳をしていた。全員が男で、黒い髪の4人は、小柄だったが、エメラルドグリーンの瞳の男は、ひょろりと不気味に背が高かった。
すぐにでも追い返したいシマテに対して、モアレは5人を受け入れた。といっても、お茶を出しただけで、畑を拡大するつもりは毛頭なかった。死んだ夫が残した形見に、赤の他人からのアドバイスひとつで手を入れるわけにはいかない。
話半分で耳だけを、5人の話に傾けて分かったのは、生産効率を上げるための設備には電気が必要だということと、たくさん採れるようになったクル豆の売り先は、5人がそれぞれ太いパイプを持っているから量を増やしても余ることはない、ということだった。
南の国は、100年以上前に電気を手放した国だ。その上、シマテたちが暮らす第23集落は、その伝統を忠実に守り続けている集落のひとつだった。
電気を使うなら、その話には乗らない、とモアレは5人を帰そうとした。
けれど5人は、なかなか引かない。そして、畑を広げるための資金と、販売する豆の単価をどんどん積み上げて、モアレの欲望を揺さぶろうした。
シマテは、玄関の入り口付近で黙って話を聞いていたが、あまりにも一方的な交渉に、苛立ちが隠せなくなってきた。頑固なモアレも、北の国帰りのかぶれたエピラたちに囲まれて言葉巧みに誘導されそうになる。
あのエメラルドグリーンの瞳の男は、絶対に北の国の出身者だ。南の国の者ではない。人から聞いたことがある。北の国出身者は、骨と皮だけでできて、髪の色は赤茶色、瞳は緑や青をしている、と。
他の4人は、あいつに操られているに違いない──。
シマテは、痺れを切らして、わざと大きな足音を立ててリビングへ入った。
「そろそろ、帰ってくれないか。うちではなく、違う農家をあたってくれ」
本当は首根っこを掴んで、1人ずつ放り出してやりたかった。シマテの精一杯の真摯な態度に対して、エピラたちはため息をついて目を見合わせた。
「分かっていない。これからは南の国の中だけで商売をやっても、限界が見えている。北の国にどんどん輸出するべきだ。これからの君たちのことを思って言っているのに、なんて聞き分けの悪い農夫だ」
5人から離れていたシマテには、顔を見合わせた5人の、誰の声か分からなかったが、あのエメラルドグリーンの瞳の男が言ったに違いないと、シマテは思った。
そう思ったが早いか、頭に上った血は、わずかに残っていた理性を吹き飛ばして、シマテは細長い男に殴りかかった。
残り4人の男も、中肉中背ではあったが、成人男性1人を取り押さえるくらいの力はある。バカにするなと叫びながら男を押さえ込もうと暴れるシマテを、4人はなんとか羽交い締めにしようとした。
ところが、気が立っているシマテの、おさまりがつかない棍棒のような腕が宙を舞い、その拳は、運が悪いことにモアレに命中した。
そして、さらに運が悪いことに、開いていた後ろの窓にのけぞり、そのまま地面へ転落した。
シマテは突然消えたモアレと、拳の感触から一気に我にかえり、バンブーハウスを飛び出した。
モアレは、鼻血を出して仰向けに倒れていた。
火山灰がクッションになったけれど、足だけは、赤土が固まった尖った岩に強打し、ぐにゃりとあらぬ方向へ曲がっていた。
その日から、モアレは車椅子を欠かせなくなった。シマテはモアレに逆らわなくなったし、なるべく人と関わらないようになった。
商人の男たちが、その後どうしたのかシマテには記憶がない。モアレの膝と踵があべこべになったような曲がった足と、虚なモアレの目を最後に、その日の記憶は途切れている。
ただ、畑は拡大することも、豆を輸出することもせず、今も粛々と南の国の中で行商を続けている。
エピラが絡むと、ろくなことがない──。
シマテは、ソファの上で、頭をかかえた。
炊き上がった米の、ほんのり甘い蒸気が、台所から無邪気に漂ってきた。
(つづく)
余談
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今回は、自室の照明を取り外し、ろうそくだけで生活している話です。
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