誰にも見つけてもらえない
インターフォンを押した。
出ないで、と思いながら。
ほんとうは、顔も見たくなかった。
けれど、傘が。
傘が、うちに。
うちの玄関に、置きっぱなしだったから。
いっしょに買いに行った傘。絹が混ざった布張りの、ピスタチオグリーンの持ち手が、汗で滑りそうになる。
靴箱のとなりに立てかけられ、忘れられた傘を見て、ホッとした。
そして、すぐにでも投げ捨てたくなった。
そのいきおいにまかせて、捨ててしまえばよかった。
捨てられるほど、怒れたら、よかった。
インターフォンを押して、永遠みたいな時間が流れて、重いグレーの扉が開いた。
ほりの深い、小さな顔が半分覗くくらいの隙間から、右目だけ目があった。
私が来たことを、きっとドアスコープで見て、気づいていた。
そのまま無視することもできたのに。
居留守をすることだって、できたのに。
薄情になりきれないあなたと、怒りきれない私。
まあまあお似合いだったと思う。
隙間から見える右目は、気まずく泳いで見えたが、落ち着いていた。視線が交わると、喉がきゅっと締まった。泣いたら負けだ。泣くに値しない。こんなこと。
「これ、忘れもの」
差し出した、淡いピスタチオグリーンの傘に視線を落とした右目は薄い茶色。髪は細くて柔らかくて、無造作に乱れている。
いま、起きたばかり? 知らんけど。
「それ、おれのじゃないよ」
痰が絡んだようなくぐもった声が、細い隙間の向こうから聞こえた。
「え」
聞き返す間もなく、隙間は線になり、
「ごめん、準備あるから」
と言うほとんど吐息のような声とともに消えた。
グレーの扉は、鉄の壁のように、固く閉められた。
もう一度、インターフォンを押した。
もう一度、もう一度。
けれど、鉄の扉は私に開かれることはなかった。
顔も見たくないのに、こんなに近くにいるのに、言葉を交わしたくもないのに、言葉すら交わせないなんて。
ぜんぶ、なかったことにするつもりだ。
この傘も、私のことも。
思い出ごと、ごまかされて蔑ろにされたら、私の一人芝居だ。
彼には結末が見えていた。というより、この結末にたどり着くのを仕向けていた。
最初から、最後まで、私はあなたに見つけてなんて、もらえていなかった。
緑の傘を持って、私はいま、どこにいるんだっけ。
創作メモ
物語を作る際に、ぼんやり考えたことや裏話などを書いています。ほとんど雑談です。今回は、突然音信不通になった人との失恋について。
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