地獄でなぜ悪い
2016年は、わたしにとって忘れられない年だ。
ちょうど2016年に切り替わる直前の年末に、発酵デザイナーの小倉ヒラクさんとお酒をかわしながら檄を飛ばされた。
要約すると「地獄でなぜ悪い。傷つきながら笑い飛ばして生きよ」というようなことだったと思う。
「ああ、わたしはいつこの地獄から這い上がれるのだろう」と、小さなシミのように広がる諦観を心の隅っこで眺めながら、2016年を迎えた。
それ以降、「地獄でなぜ悪い」という言葉がずっと耳の奥の方でこだましていて、2016年は結果的に地獄を這いずりながら「傷つきながら笑い飛ばして生き」た一年になった。
地獄は、「這い上がらなくちゃ」と思うと途端に苦しくなる。
とにかく自分に自信がなくて、自分のことが大っ嫌いで、でも傷つきたくないし、誰かに認めて欲しいし愛して欲しいし構って欲しいしけど性悪なわたしを誰が受け入れてくれようか、自信がないことが諸悪の根源だけど自信がないから劣等感に苛まれて他者を受け入れられなくて、ますます落ち込んで自己嫌悪に陥る──という、こじれにこじれた自意識で自分の喉を締め付け続けていた20年弱。
そのため、わたしのことを大切にしてくれない人でも、求められればズルズルとすがってしまう。
自分のことが嫌いだから、自分を大切にする方法が分からない。
ゴミカスな自分を、好きになってくれる人なんていない。
でも、誰からも愛されないのは寂しい寂しい寂しい。
わたしのような劣った人間が周りに助けを求めるなんて恐れ多くてできないけれど、寂しさを持て余して孤独に耐えかねるわたしの心に誰かそっと触れてほしい。
そうやって、自意識が泥沼化していくほど、地獄に嵌っていく。
こんな状態、早く抜け出したいともがけばもがくほど、ますます自分を傷つける。
蟻地獄とは、まさにこのこと。
「こんなはずじゃなかった」
「わたしはもっとできるはず」
身の丈を知らずに背伸びして背伸びして背伸びしていつの間にか地面から離れてしまった足先は、自分の体を支えることもできない。
上に登っているつもりが、それは「蜘蛛の糸」にすがるカン陀多のように地獄から這い上がろうとしているだけ。
2018年の今でこそ、地獄を完全に脱したとは言えない。
むしろ地獄からは、たぶん、一生抜け出せないだろう。
でも、2016年がなぜ地獄を笑い飛ばせる一年になったかって、孤独を抱きしめている人とたくさん出会えたからかもしれない。
孤独を抱きしめるって、字面はなんだか慈愛に満ちた感じで簡単な一節だけれど、もう本当に気がおかしくなるんじゃないかってところまで自分を痛めつけたり勇気を出して褒めてみたりしないと、なかなかできないことでした。
わたしにはものすごく、むずかしいことでした。
生まれながらにして、孤独をていねいに扱うことを学べる人もいるけれど、わたしはそうじゃなかったから徹底的に拒否されて受け入れられなくて惨めな孤独に放り出されて初めて、うすらぼんやりと理解できた。
孤独を抱きしめて、初めて「地獄でなぜ悪い」と言える。
「地獄でなぜ悪い」と言えると、地獄だった世界で生き延びる心もちを得られる。
抜け出せないなりに生き抜く方法があるはずで、地獄で生きる者なりの、生存戦略を探す旅に出る。
孤独を抱きしめるってそれはつまりたぶん、寂しいと思っている自分を否定しないこと。
自分に自信がないと思っている自分を、邪険に扱わないこと。
「寂しいなんて思っているわたし、不幸せ」なんて、思わないこと。
誰だって寂しいし自信がないし自分のことなんてなかなか好きになれないし、好きになれないからってダメ人間なわけじゃない。
自分のことが嫌いなら、嫌いなままでもいいじゃない。
寂しいなら、寂しいままでも、いいんじゃない。
どうにかしたいなら、どうにかしよう。
変えたいなら、変わろう。
ただそれだけでしょ?
ただそれだけだよ。
「地獄でなぜ悪い」の?
いつの間にやら迷い込んだ、このあてどもない地獄で、それでもやっぱり生きていくことを選ぶなら、わたしはいくらでも、わたし自身に胸を貸したいよ。
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