いつまでも機嫌良くいられると思うなよ #交換留学日記 13
2024年11月11日 日常再開
新しい授業が始まった。初めて行く校舎で、しばし迷子になる。
ヨーロッパの歴史に関する授業だと理解していたが、思っていたより欧米の歴史の観点が強い。
反ヨーロッパ主義の思想を、ロシアサイド、アメリカサイドの両側から考えてみようという授業。
もう少し歴史より資本主義や社会主義の話が聞けるかと思っていたが、そうでもなさそう。
授業後は、図書館で勉強をし、帰宅。
久々に雨に濡れ、早々に就寝。風邪をひかないようにしないと。
2024年11月12日 フェアでありたい
2つ目の新しい授業が始まった。
大学の教室が満室で、否応なくオンライン授業になったとのこと。
あんなにたくさん建物があるのに、授業用の教室がなくなるなんてこと、あるんだ……。
受講生は200名近いから、仕方ないのかもしれない。
今週もレクチャーがあるけれど、同日に、オランダ政府が教育にかける予算を削減したことについて、プロテストが行われるらしい。
「プロテストに参加する学生のために、次のレクチャーは録画します」と事前にメールが届いていた。
コースを担当する教授たちの中にもプロテストに参加する人がいるという。
立場や年齢に関係なく、不当だと思う人同士で一緒に声を上げようとする姿勢を見るたび「オランダにいるな」と感じる。
ヒエラルキーによる関係性のノイズが、限りなく少ない。
階級に基づく振る舞いの差別化は、恭しさにも図々しさにもつながる。
そうして培われた文化的な身体もあれば、抑圧されて涙を呑んできた歴史もある。
どちらが良いか悪いか、判断はしない。
ただ「違うな」と受け止めるだけ。
相手を、ジャッジしない。優劣をつけない。
海外に暮らし始めてから自然にできるようになったけれど、海外移住後、大きく変わったことの、一つかもしれない。
好みはある。
でも、好みと優劣を同化させない。
時に、勘違いしそうになるけれど。
月曜に受けた、もう一つの授業については、あまり興味がわかない上に、修士論文のためのテキストを読み進めたい気持ちが強まり、思い切ってユトレヒト交換留学後半は、授業1コマに絞ることに。
単位は、ラトビア大学のコースディレクターの先生が「なんとなかる」と言ってくれたから、取捨選択の決断ができた。
2024年11月13日 若くても若くなくても
よく、手や首に老いが出ると言う。
毎日見ているから、自分では変化が分からない。
でも、乾燥して細かいシワがたくさん入った足の甲を見て「弾力が減ったなあ」と実感。
身体が年齢とともに、少しずつ変化していく様子は興味深い。
誰かの持ち物を、代理でジッと観察している気分になる。
確かに自分の生身なのにね。
シワが一つ、増えるたび、新たな知識がその隙間にジワっと染み込んで、血液に溶けて身体中を巡ったら、それだけで心がうるおう。
勉強や旅を経て、まばたきが惜しい景色、出会う人たちの息遣い、髪の毛をやさしく梳く風、深呼吸したくなるにおいなんかで、身体を満たすと頭の奥の方がジーンと熱くなって、「あ、栄養が行き渡っている」と実感する。
20代の頃に比べて、感受性の触手が、ずいぶん遠く広く、伸びるようになったなと思う。
本来は逆(狭く深く)なのかもしれないけれど、感受性は若さと共に老いるわけではない。
受け取り方は変わるけれど、身体がシワだらけになって土に還るまで、なるべくやわらかく強い感度を両腕を広げ、保ち続けたいと思う、秋の夕暮れ。
2024年11月14日 ごめんなさい、勘違いしていました
新しい授業は「self-regulation」というタイトル。
その名の通り、モチベーションとはどのように生まれるか、目標設定がどのように行動に結びつく(もしくは結びつかない)のか、などなどを学ぶ。
心理学、ど真ん中。
高校生くらいの頃、心理学に少し興味があった。
結局その道は選ばなかったが、心理学の基礎は統計や定量的な研究だと聞いたから。
当時はそれ以上詳しく調べず、なんとなく聞きかじった知識から「人の心を数字で測るなんて!」と違和感を覚え、選ばなかったのだ。
実際、いま心理学に関する授業を受けていても、その違和感は消えていない。
ただ、人間にも傾向があり、さまざまなフレームワークで語ることができるおもしろさはある。
文化人類学と心理学の違いは、こんなところだろうか(専門書などを読んだ比較ではなく、完全に体感レベルです)。
定量(心理学)
定性(文化人類学)
仮説→調査→実証→結論(心理学)
仮説→調査→考察→結論(文化人類学)
いずれにせよ、関連し合う部分はありつつ、まったく違う学問だという確信を得た。
同時に、わたしがいま所属している「Social Science」という学部は、定量的な研究に強いのだと、よく分かった。
正直、わたしは「Social Science」の定義を誤解していた。
もっと定量と定性の学問が、密接に関わり合っていると思っていた。
想像以上に、定量的な研究やテーマが多いし、定量的なセオリーや学説が取り上げられるたび「ほんとかな?」と立ち止まってしまうため、毎回授業の予習と復習が欠かせない。理解まで、時間がかかる。
心理学は「にんげんのことを分かりたい。分からないことも多いけど一旦分かったことをベース(定量調査)に傾向を定義しよう(結論)」。
文化人類学は「にんげんのことを分かりたい。分かれば分かるほど分からないことが増えていく(定性調査)。分かるのは分からないことだらけだということだ(結論)」。
心理学のテキストは最初と最後だけ読めば、その論文が何を言いたいのか80%くらい理解できるが、文化人類学のテキストは最初と最後を読んでも50%を理解できるかできないか。
文化人類学に心理学的視点は役立つけれど、心理学に文化人類学のフレームワークを活用するのは、少しむずかしい気がした。補足的に論文で言及することはできても、分析に組み込むと論理の筋書きが混乱しそう。
去年、ラトビア大学で文化人類学を専攻し始めてから「文化人類学はねちっこい学問だなあ(いい意味で)」と感じていたが、心理学の勉強をかじると、一層ねちっこさが際立つ。
白黒はっきりさせたくない・はっきりできないと思っている自分には、ねちっこいほうが、向いている。
2024年11月15日 うるさーい!
金曜日。
天気が良くないせいか、なんだか気分が上がらない。
天気予報を見ると、これから数日、ずっと雨マーク。
3、4年くらい前は「自分の機嫌は自分で取ろう」というメッセージが、多くの人の緊張をほぐした。
けれど自分で自分の機嫌を取るにも、限界はある。
なぜなら、どんな出来事も、自分一人だけで発現しているわけではないからだ。
例え一日中、誰とも口をきいていなくても、今はSNSもある。
声や音、言葉の情報で溢れている。
気を抜くと、頭の中がいつも誰かの声や自分の声でうるさい。
時間もお金もかかるけれど、自転車通学を選んだのは、わたしなりのご機嫌取りの手段のため。
ジムへ行くために月謝を払いたくないが、身体を動かしている間は、頭の声を消音してくれる。
緑が黄金色に変わったり、羊が眠そうにこちらを見ている様子を横目に自転車を漕いだりしていると、音にならないけれど確実に存在する匿名と実名の喧騒で圧迫されギリギリになった心の余白が、すーっとアベレージに戻る感覚がある。
そういう意味で、英語か日本語でない限り、会話の内容が入ってこないのは、かなりノイズが絞られていて居心地がいい。
海外にいるのが好きな理由は、日常的なノイズの少なさにもある。
今週も、よくがんばりました。
2024年11月16日 ハンドクラフトクラブへ参加
Facebookで見つけた、クラフトイベントに参加。
自分が好きな手作りのものを持ち寄って、おしゃべりしながら作品作りをしようというイベント。
集まったのは、年齢も職種も様々な8人ほどの女性たち。
全員、オランダ外出身で仕事や結婚、留学のためにオランダに住んでいる。
いろんなバックグラウンドがありつつ、異国で暮らす中で試行錯誤したり、思うようにいかなかったりする悩みを持っているからか、言語やジェンダー、教育システムの話にまで及び、話題が縦横無尽でおもしろかった。
先日、とある著名人が「日本人女性の結婚を25歳までに義務付け、30歳までに出産しなかったら子宮を摘出すべき。大学で勉強する権利も女性には不要」と発言したことについてもニュースになっていたらしく、「あり得なくない?」と憤っていた。
うん、あり得ない。
あり得ないけど、それくらい突飛な思想を軽々しく発言できる世の中になってしまった。
自由や平等を獲得するために、命からがらだった人々と、少数派が抑圧から解放されるべく起こした行動が、自分への攻撃だと受け取ってしまった多数派による不満が、正当化され、ヒステリックに刺激されている。
左派も右派もない。どちらも、エクストリームになりすぎる。
思い込みと決めつけは、今後ますます劇薬になるだろう。
身体も時間も有限だけど、絶対に、生身の情報を欠かさないぞと改めて思う。
2024年11月17日 歩きたくなる街
これから数日は、しばらく雨。
と言っても、ずっと雨が降っているわけではなく、降ったり止んだりが切れ間なく続く感じ。
ときどき、青空がのぞく。
青空でも雨が降ることもあるから、要注意。
自転車で大学の図書館へ向かう途中、ちょうど雨が途切れて晴れ間がのぞいた。
家から大学への道は、農場が広がり、羊や馬が草をはんでいる。
林も多く、散歩している人たちがたくさんいる。
大学の近くは車の走行量も少なく、木々が多いからか、朝から夜まで、歩いている老若男女が必ずいる。
犬の散歩、家族で散歩、夫婦で散歩、一人でジョギング、などなど。
外を歩くことが生活の一部になっているようだ。
アムステルダムや他の都市部でも、歩いている人は多いのだろうか。
ユトレヒトは自転車の利用数が、他のオランダの街に比べても多いと聞いた(実際の数は不明)。
歩きやすい道が整備される必要があるが、歩きたくなる道がある町って、いいね。
住み心地が良さそうだ。あとは家賃さえ安ければ……!
余談: やさしくなりたい
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