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息が詰まるほど暑い日、事切れた青春|マームとジプシー「cocoon」
力いっぱい走ると、喉元まで心臓が飛び上がってくるんじゃないかというほど強く脈打つ。
死角から突如背中に銃を突きつけられたら、きっと、心臓はやっぱり喉元まで急上昇して自分の血が何色かを見る前に死んでしまうだろう。
いったい、何人の、女の子、が、自分の血の色すら知らずに、死んでいったのでしょうか。いったい、何人の、女の子、が、自分の心のざわめきの成り行きを見届けられずに、ときめきのとの字も知らずに、死んでいったのだろう。
今日マチ子さんの漫画「cocoon」を、劇団マームとジプシーが舞台化した「cocoon」。
女子校の、数十人の女の子たちが、日々、いろんなうわさ話や風のざわめき、近くに出来たおいしい甘味のお店の話とか、友達とのバレーボール、かっこいい先輩の後ろ姿、恋みたいな恋じゃないみたいなそういうなんかじっと見つめるのも恥ずかしくなっちゃう時間を過ごしていろいろなことに忙しく心ふるわせていたところへ、突然の招集、兵隊の看護命令、「お国のために」という大義名分、純潔と不純、解散、逃亡、敗戦、それから。
蚕はぜんぶは殺さない。次の生糸をつむぐため、少しだけ殺さず残しておくのよ。
というような台詞が、物語の冒頭に出てくる。実際、人間は、ほとんどいなくなるというのに、繭ばかり増えて。
「まゆ」という、長身の女の子。彼女だけ一人称が“ぼく”。スレンダーな見た目とさっぱりしたショートヘア、憧れの的、「まゆ」。
いつもみんなを守ってくれた「まゆ」も、海岸に向かう道すがら、隠れている敵軍の銃弾から全員を守ることはできない。死体はいつしか繭になり、舞台上に転がる。それらは、生まれ変わるための蘇生にも見え、死体を包むミイラにも見える。
何度も何度も何度も、忘れることを恐れるように1939~1945年までの出来事は、さまざまに描写されてきた。去年、戦後70年が経ち、今年は広島にオバマ大統領が来た。
でも、やっぱり、人は忘れてしまう生き物だ。起きたこと、過去のこと、頭では分かっていても、もうどうしようもなく、細胞が生まれ変わるサイクルより何周か遅れて、記憶も剥がれて消えていく。傷つけられた傷は忘れにくいけれどかさぶたになって知らないうちに治っているし傷つけたことはすぐ忘れてしまうし、その傷も自分ではなく隣の人、ましてや名前も知らない不特定多数の誰かの傷であれば、どれほど思いを馳せてみても、わたしはちっとも痛くない。その事実がいつまでも痛い。治癒する能力があることはすばらしいけれど、新しい体は、世代は、時代は、過去を引きずれない。
それでもかさぶたをつくる時間すら、過ごす暇もなく事切れた、駆け出しの青春を抱いて死んだ女の子たちが、土の下の方で眠っている。
紡いでもつむぎきれない、端くれにもかかりきらなかった、様々な人の人生の断面が、あの日からこの土の底にべったり張り付いていることを、わたしたちはこうして、忘れまいと目をこらす人々がつくりだす創作物を通して、背中に突きつけられた銃の代わりに、目の前に差し出されて、「痛いんだ」と思い出す。そういう記憶の拡散を、煮沸されなかった蚕は繰り返さなければならない。それが、生き残るということだ。きっときっと、生きていくということだ。
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