手料理はいつも、絶体絶命
向田邦子女史のエッセイが、だいすきだ。
ユーモラスで、とんちがきいていて、どこかさびしげでもある。
彼女は、来客のたびにささっと数品作って、仲間や友人に提供したという。
うつわにも明るく、自身で小料理屋まで開いてしまうほど、自作の料理をふるまうことが、すきだった。
北海道で暮らしていたころ、家飲みでは手料理を持ち寄るのが常だった。
家飲みの場合は、たいてい、我が家が会場になることが多かった。
手抜き料理だと言いつつも薬味を効かせた肴をいくつかの容器に分けて持ってくる友人や、数日前から仕込んだ鹿肉や熊肉なんかを、熱々の鍋に入れて持ってくる友人、その日釣った川魚を串に刺して、庭で勝手に焼き始める友人などなど、彼らは自由に料理をした。
その気張らない感じが、わたしは、だいすきだった。
向田邦子女史のエッセイに出てくる軽やかさを、彼らは無自覚に体現していて、うらやましかった。
「あんなふうに、思い切らずに料理ができたらいいのに」と思った。
料理が、きらいなわけではない。
むしろ、黙々と野菜を刻んだり、入れる調味料によって和食にも洋食にもなったり、すりつぶしたり砕いたり、蒸したり焼いたり……料理はまるで実験だ。
高校生のころ、赤点ギリギリを取るほど化学が苦手だった。
元素記号でなく料理を通じて化学を学んでいたならば、わたしの高校時代はほんの少し、前向きな思い出になったかもしれない。
化学はさておき、向田邦子女史や友人たちの、軽やかな料理にあこがれるのは、わたしにとって手料理が、手の内を明かすような、自分の無意識をさらけ出すような、とても勇気のいる行為だからかもしれない。
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