欲望まみれの人間が「誰かのために」と思えるようになるまで
「いつまで“自分のためだけに”生きられる?」と、最近自問自答します。
もともと超絶自己中人間で、でも愛想ばかり良かったからなんとなく「礼儀正しい子」として認識されがちだった青春時代。
けれど腹の底では自分の旨味がどこにあるかということにばかり目を爛々とさせて探しているような、濁った欲望に支配されていた。
今でこそ、他人を蹴落としてまで得をしたいなどという黒い思いは消え去ったけれど、自己中であることには変わりない。
そして、その欲望という名の鎖がいよいよ錆びついて軋んで、うるさくてかなわない。
でもある日、わたしにとって、自己中を正当化してくれる一つの答えに出会えた。
その答えというのは「自分が気持ちよくなるためにまず相手を気持ちよくさせることを考えよ」というもの。
爾、隣人を愛せよとは、誠に至言だわ、と関心のあまりううぅむと唸ってしまったくらい。
「自分が楽しく生きていくために、相手のことを考える」という視点なら、「誰かのために」身を粉にすることができそうだ。
そう思うと、自分のことで頭がいっぱいなくせにぬぐいきれない自己嫌悪感が、すーっと浄化されていくようでした。
べつに、動機はなんでもよい。
楽しく生きていくために「ゆかいな仲間」が必要ならば、その仲間のためにできることをしよう。
楽しく生きていくために、仲間が必要ないなら、周りに迷惑をかけずに一人きりでやりきればいい。
でもそれは、自己中でプライドばかり高い甘ったれなわたしには、無理な話。
結局、誰かがいないと何もできない。
と、いうふうに、一人きりの限界を知ってこそ、いい意味で諦められる。
わたしは一人では生きていけないんだ、という諦観と絶望感から「自分のために、誰かのためにがんばろう」という希望がわいてくる。
……こんな言い訳なんてしなくても、もっともっと純度の高い「誰かのために頑張りたい」という気持ちを持っている人もいると思うけれど、わたしはそこまでまっすぐな人間ではない。
そうやって一つ一つ、腹落ちさせながら生きてゆくから、ちんたら鈍行列車のように、なかなか遠回りしているに違いない。
それでもいい。
「誰かを想う」ルートに、遠回りか最短距離かは、あんまり関係ない。
むしろ「誰かを想う」ことが偽善でも無理強いでもなくなった瞬間、より早く遠く豊かな未来へ、自分を進めてくれるから。
自分をごまかしながら生きていくより、ずっとマシさ。
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