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エピラ(21)母の記憶

前回のあらすじ

とある北の国と南の国の物語。自称医者の男・クレスを訪ねたニカは、父・シマテの足は北の国に行かないと治らないと告げられる。帰路、迷子になったニカ不可解な爆発に巻き込まれ、シマテとモカレによって救出される。ニカが持ち帰ったダチェルの実から、シマテは自分の出生を回想する。

登場人物

ニカ : 南国の第23集落に住む、12歳の女の子。
シマテ: ニカの父親。クル豆農家。第18集落で事故に遭い、左足を失う。
モカレ: ニカの母親。クル豆農家。
モアレ: モカレの母親で、ニカの祖母。足が悪く車椅子生活。
クレス:第23集落に住む、エピラの自称医者
シーラ: 第23集落の図書館の司書

用語紹介

エピラ:南国で生まれ育ちながら北国へ移住した人、北国へ移住したが南国へ出戻りした人を指す
ダチェル:止血効果のある茶色いひだ状の木の実
ポフネ:北国で生まれ育ち、原則として北国を出たことがない人々を指す
ハタロ:南国で生まれ育ち、原則として南国を出たことがない人々を指す

 シマテが知っているのは、北国の森の中で自分が産まれたということと、母の瞳がニカと同じ、エメラルドグリーンだったということだ。

 シマテの、濃い赤茶色の太い髪の毛は、北国ではめずらしかった。

 めずらしいというより、不吉なものだと思われていたから、シマテは小さい頃から、母親の腕の中で抱かれているだけで、人を遠ざけた。

 なぜ髪の色が赤茶色だったのか、シマテ自身は知らない。

 赤茶色の髪の毛と、黒い瞳は、エピラはもちろん、南国生まれ、南国育ち、南国から出たことがない「ハタロ」と呼ばれる人間の特徴だった。

 男女ともに筋肉質で、眉が太く、声も低い。肌は褐色で、髪の毛は黒か赤茶色、紫っぽい黒なのが、主にハタロやエピラの特徴だと言われている。

 さらに、遺伝子的な特徴として、耳が悪くなりやすい。

 一方、北国生まれ、北国育ちの「ポフネ」と呼ばれる人間の特徴は、エメラルドグリーンの瞳、年齢問わず白か銀色の髪で、肌も、まつ毛までも白く、背が高く、面長、腕も長く、目も細い。

 ポフネの場合は、一度出血すると、血が止まりにくい特徴がある。

 そのため、北国ではダチェルの実は重宝されていた。

 赤子の頃から日に焼けたような肌をして産まれたシマテは、明らかに南国の人間だった。

 北国で産まれたにもかかわらず、南国の人間であることは明らかに異常だったし、そもそも北国にとって、南国は“実験場”だったから、南国の人間が北国へ気軽に入国することは、あり得ないのだ。

 シマテの母親は、汚いものを見るような周りの目に耐えきれず、南国へ木材を出荷する貿易船に積まれた、藁を敷き詰めた木箱の中に、まだ言葉さえおぼつかないシマテを、船員や商人の目をかいくぐり、密かに置きざりにして、消えた。

 木箱の中で、シマテは時折目を覚まして大声で泣き叫んだが、動き回るシマテの体を、知っている母の温もりとは程遠い冷たい藁の先が、チクチクと咎めるように刺してきて、泣き疲れたのと痛いのとで眠ってしまい、また起きて泣き叫ぶ、というのを繰り返した。

 その何度目かで、木箱の蓋が開き、シマテを見下ろした大きな黒い瞳が二つ、シマテの目に入ったのは、船が出港して何日目か分からないが朝早い白い光が、その黒い瞳の中で星のように反射していた。

 ぎょろりとしたその黒い瞳は、大声で何かを叫び、幼いシマテを抱き上げた。

 シマテは、なにかとんでもない危険を察知して、ありったけの力を振り絞って泣き叫んだが、ぎょろりとした黒い瞳は、シマテの予想に反して、太くて毛むくじゃらの腕でシマテを抱いた。

 船が南国に到着してから、シマテはさまざまな腕に抱かれた。

 けれどそのどれもが、しっくりこなかった。しっくりこなくても、にっこり笑えば大人は喜んだから、笑顔を瞬時に作る技術だけは、どんどん磨かれた。

 そのスキルと引き換えに、自分を見下ろす母親の、晴れた青空のように清らかなエメラルドグリーンの瞳は、だんだんとかすみ、濁ってきた。

 母親の記憶の変容は、シマテを抱き上げるさまざまな大人による、忠告や嫌味や、下品な冗談によるものだった。

 「結局、お前など、愛されていないのさ」

 誰だか覚えていないけれど、シマテを抱き上げた大人の一人が、そう言った。その言葉は、母親だと思っていたエメラルドグリーンの瞳に、ヒビを入れた。

 ずいぶん長いこと、忘れていた。

 忘れたくて、記憶をねじ伏せ続けていたら、それが当たり前になっていった。

 けれど、モカレとの間に産まれたニカの瞳が、エメラルドグリーンだと分かった瞬間から、シマテは逃げられない何者かに、足を絡め取られていた。

 自分の身体に、ポフネの血が流れていることを、シマテは思い出さないわけにはいかなくなった。

 しかもそのポフネは、自分を捨てた、母親なのだ。

 シマテは、子どもの頃に鍛えた笑顔を、いっさい見せなくなった。

 ──こいつも、いつかおれを見放すかもしれない。

 そう思うと、捨てられる前に捨ててしまいたかった。けれど、ニカはシマテの言うことをよく聞いたし、モカレもニカを手厚く育てた。

 何処の馬の骨とも知れないシマテを愛したモカレを、悲しませることだけはシマテの正義に反した。ニカを邪険に扱えば、モカレが身体を張ってニカを守るに違いない。

 *

 居間に戻り、モカレは木の椀をシマテの前に置いた。

 「早く食べないとカサカサに乾いちまうよ」

 そう言いながら、モカレはスプーンを持ち、食べるだろ、と言った。

 シマテはしばらく黙ってダチェルの粥を見つめていたが、観念したようにモカレからスプーンを受け取り、おそるおそる、一口食べた。

 「そんなに怖がらなくても、ニカは料理がうまいんだから不味いわけないよ」

 モカレはシマテに向かい合って座り、頬杖をついて、粥を咀嚼するシマテを見つめた。

 「あの子だって、あんたが心配なのさ」

 嗅いだことのある、ほんのり甘い香り。噛むと渋みのある、栗のような味のダチェルの粥。

 ──食べたことはないはずだが、名前だけ聞いたことがある気がする……何故だろう。

 シマテが眉間に皺を寄せ、開きかけた記憶の扉にそっと手を伸ばそうとすると、モカレがシマテの眉間にピン、と指を弾いた。

 「難しい顔して食べるんじゃないよ」

 シマテは、ハッとして、目の前のモカレを見つめた。たくましい二の腕でをシマテの方に伸ばし、にっこり笑うモカレの、丸く盛り上がる頬を見ていると、シマテは自分が何に怖がっていたのか、馬鹿らしくなってきた。

 ──おれを捨てた母親は、どこにいるのか誰なのか、分からなくてもいい。ニカはニカだし、モカレはこうしてそばにいてくれるじゃないか。

 シマテは、黙って匙を動かし、残りのダチェルの粥を口に運んだ。

 3口くらいで食べられるくらい少量だったが、少しずつ、いつもより何度も口の中で液体になるほど噛み締めて食べた。

(つづく)


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