見出し画像

40年前から、ここは"ニッポン"ではない-富山県利賀村とSCOT-

40年。

40年だ。

わたしが今の倍生きて、やっと届く年月。

その間、ずっとこの過疎地帯の山間部で、多くの俳優と制作部隊が、日本だけでなく世界中の演劇好きたちを集め、刺激を与え、輩出してきた。

おだやかな川べりを、昨晩より湿気を帯びた暑さのなか、こみ上げてきたものを抑えきれずにゆっくり歩いた。

なんてこった。

わたしがイメージしていた世界――国境を越えて、言語だけでは通じえないコミュニケーションの継続と発展、芸術の創造、それを地元で暮らしている人の生活と共存して建設していく世界――が、富山県の過疎地帯にあるなんて。

しかも、その営みは、40年も前から始まっていたなんて。

もっと早く見つけられたらよかったのに

という悔しさと

やっと見つけた

という興奮と

本当にこんな場所があるんだ

という喜びが

手探りで突き進み続けたわたしに、ひとつの答えと希望を見出してくれたようで、涙が止まらなかった。

富山県利賀村には1976年からSCOTという演劇集団が腰を据えている。村を拠点に毎年SCOT summer seasonという名前で演劇祭を開催している。舞台はすべて利賀村内に設えられた、緻密に設計された劇場。ある建物は合掌造りで能舞台のような黒塗りの舞台。またある建物は、円形の石造りの半円形劇場。

「僕はね、芸術祭をしているつもりはないんです。これは『世直し』だから」

「芸術に関わっているやつには、土地というふるさとはないんだ。そのかわり、国の歴史や言語を超えていく力がある。芸術が、心のふるさとなんだよ」

「ニッポンジンがいったいどういう人々なのか。そのアイデンティティは今ものすごく曖昧。だから僕も、演劇を通して、それを探しているんです」

わたしが「演劇に救済という役割はあると思いますか」と聞いた質問に解答するなかで、鈴木忠志氏はこう答えた。

最終日は、ひとり、利賀村の劇場に居た。暑さにじりじりと焼かれ、興奮のあまり涙が止まらなくて、しばし落ち着こうと川辺に立つコテージに入る。

「あ、ここは劇団関係者の食堂なんですよ」と言われ、慌てて外に出ようとする。

「なにかお探しですか」と中にいた女性が穏やかな口調で問う。

「ニッポンジン」という作品の主演をつとめていた女優さんだった。舞台上ではまるで般若のような形相で(そういう役)演技をしていて、母親神話への懐疑を描く物語。その中核を担う女優さんだったけれど、いま目の前にいるのは、ずいぶんと穏やかな女性だった。

「喉が渇いてしまって、自動販売機か何かを探しているんです」と涙をこらえたせいでポソポソした声でわたしは言う。

「ああ、そうなんですね。ちょっと待ってくださいね」と彼女は言い、仲間に電話をかける。

「ここって飲食の販売をしているのだっけ? ……ああ、夕方からか。分かりましたー。……すみませんね、販売はしていないみたいで。あ、でも麦茶くらいならあるかも。ちょっと待ってくださいね。」

と、彼女は台所にはいって、「何にもなくてごめんなさいね」と麦茶をガラスコップに入れてくれた。

わたしは、なんかもう、自分なにしてんだって思った。

「すみません、ありがとうございます」と言って麦茶をいただく。本当は、いろいろなことを聞きたかった。

なぜ利賀村へ来たのか。

ここでの暮らしはどうか。

芝居をやるって貴女にとってどういうことか。

ここで芝居を続けると、どういう未来が待っていると思うか。

でも、彼女はなにやら忙しそうだったし、わたしも今夜舞台を控えた女優さんを捕まえて、上記のような突飛な質問を急に投げかけるほど非常識ではなかった。

麦茶を出してくれた直後、白い軽トラがコテージの前に止まった。中から傘をかぶったおばあちゃんが出てきて、大きなカボチャと野菜を持って「これねぇ、今朝とれたんよ」と中へ入ってきた。

「わあ、ありがとうございます」とその女優さんは言い、ほかにも数名のばあちゃんが周りに集まってきて、いつごろが食べどきだとか、どうやって食べるといいとか少し立ち話をしてから、ばあちゃんは軽トラに乗って去っていった。

「地元の方ですか」

と聞くと

「そうなんです、こうやっておすそ分けをくださるんです」

と彼女は笑って言った。

ばあちゃんは、「今夜、見に来るからねぇ。あと最終日も」と言っていた。

ここは、地元の方も観に来る劇場。決して万人に受け入れられる芝居ではないけど、そもそも演劇ってそういうものだ。未だに排他的で、たどり着くまでにかなりのふるいにかけられる。「観たい」という好奇心を想起させるのは、たいていは有名な女優さんや俳優さんを使ったエンタメ的要素の強いものだ。それは消費されゆく都市の演劇が、かろうじて演劇として生き残るための生存戦略かもしれない。

ゲンロン1 現代日本の批評」を読んだときも、SCOT中のプログラムのひとつである鈴木さんのトーク(といっても舞台上の黒い椅子に鈴木さんが腰掛け「さ、質問どうぞ」としょっぱなから来場者からの鈴木さんが答える一問一答形式の時間だった)でも、鈴木さんは文化の消費と創造が都会に集中してしまうことに嫌気がさし、利賀村に移住して拠点を構えると発表した。そして当時、かなりの人々は「何を馬鹿なことを」とせせら笑ったという。中には、変な新興宗教の拠点をつくるんじゃないかなんて言われたこともあったらしい。そして、そのように危惧する理由は、わたしもなんとなく理解する。

けれど、ここはド田舎の、演劇村。村、だから、きちんとコミュニティが形成されていて、社会活動もきちんと行う。どんなもんかとわたしも安易に想像していたけれど、その予想をはるかに上回る、土着感。世捨て人とかヒッピー的な要素は皆無で、村の人も芝居を観に来るし、葬式があれば俳優たちも近所の家へお線香をあげに行く。回覧板を回し、他畑を耕し、稽古をする。そして毎年、涼しい夏の1週間には、世界中から彼らの芝居を観に、そして舞台を演りに観客と俳優たちが集まる。

ゲンロンでもトークでも鈴木さんが話していたけれど、「ここは日本だけれど、日本じゃないみたいなところだ」という印象。異国の言葉、生活文化、パッと見では分からない衝突は絶対にあるけれど、それでも“演劇”という共通言語が彼らの共存を可能にしている。

今回のSCOTの演目は、ほとんど歌謡曲がモチーフになっていて、ポスターにはこんな言葉がある。

「ニッポンジンハ、ドコカラキテ、ドコヘイクノカ」。

奇しくもジブリの新作「Red Turtle」もゴーギャンの「Where Do We Come From? What Are We? Where Are We Going?」という作品と重ねたコンセプト?というかメッセージをにおわせる。

そして同時に、大学時代の恩師に言われた言葉が蘇る。

「ここまで自国の国民性や文化観を考察して書き残している国民は、世界でも珍しいんだよ」。

作品やトークの中で「国家とはなにか」「ニッポンジンとは何者か」という問答が交わされた。みんな、自分の行方を知りたいのだ。

***

SCOTの目玉、というか有名たらしめた演目のひとつに「世界の果てからこんにちは」という舞台がある。これがパンフレットなどでも取り上げられる、打ち上げ花火を使った演出が見せ場の舞台だ。同じ規模の芝居は、東京では打てない。これは誰からも見て自明すぎる事実。ただシンプルに、場所がないから。花火を何百発もあげられる場所も、制度も、ない。大きな声を出して何時でも稽古ができる場所も、ない。あっても有料だろう。

わたしはそういう規模も然り、とにかく「芸術が心のふるさとだ」という鈴木さんの言葉の真意を、たった数日、たった小さな一幕だけで、理解せざるを得なかった事実に、衝撃を受けている。

数時間前に、あのコテージの前を通った時、いろんな言語でせわしなく、黒いSCOTTシャツを着た俳優や女優とおぼしきひとたちが、ザワザワとしていた。地元の人と思われるじいちゃんばあちゃんが、コテージにいる俳優たちに振舞っていて、その前を、電動カートに乗った鈴木さんが、カゴに虫除けスプレーみたいなものを詰めて、なにやらなかにいるスタッフに指示を出していた。

なんだこりゃ

と思った。

世界的演出家と、俳優・女優と、それを支えるスタッフが、こんな山の中で、ほんとに暮らしているんだ。

信じられないけどホンモノだったし、わたしはこの世界の実現がマジで、目の前で展開している現実に、圧倒されてしまった。圧倒されてしまったなんて日本語じゃあ足りないほど、ハッキリとした暮らしが目の前にあって、そのうえで、あの花火ぶち上げまくる演出や、能舞台のような簡略化された動きと、一言で叫ぶ台詞回しの訓練が行われているのかという、その営みがあまりに自然に継続されているもんだから、わたしは完全に置いていかれたような気分になってしまった。

しかも、そこから少し行った円形の野外劇場では、インドネシアの劇団と思われるひとびとが稽古をしていた。彼らは、大きな声で笑ったり歌ったり、発声の練習をしているのか、それとも筋書きの其れなのかは分からないけれどとにかくのびのびと、生い茂る緑の間からチラチラと縦横無尽に動き回る俳優らしき人々が見えた。山間部だから、どんなに大きな声や音を出しても近所迷惑にならない。音響も照明も、大道具の組立も舞台転換も自由自在。

だってここは利賀村芸術公園。SCOTのための場所。演劇を愛し、営むひとのための、暮らしと表現の場所。

「我々がやっているのは、世直しだ」
「利賀には東京支配の日本を捨てるつもりで行ったんだよ」

東京へ向かう新幹線の中、鈴木さんのこの言葉と利賀村の透明な川のせせらぎ、そして穏やかな風と虫の音に混じって聞こえてくる、稽古かリハーサルのための人の声、が、頭の中で離れない。(2016年8月30日15:00頃 北陸新幹線の中にて)

読んでいただき、本当にありがとうございます。サポートいただいた分は創作活動に大切に使わせていただきます。