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エピラ(17)考え事という名の迷子

前回のあらすじ

とある北の国と南の国の物語。ニカは足を負傷した父を救助した、自称医者の男・クレスを訪ねた。北の国に行かないと父の足は治らないと言うクレスに戸惑うニカ。クレスから、対処療法としてダチェルの実を粥にして父親に飲ませるよう念押しされる。

登場人物

ニカ: 南の国の第23集落に住む、12歳の女の子。
シマテ: ニカの父親。クル豆農家。第18集落で事故に遭い、左足を失う。
モカレ: ニカの母親。クル豆農家。
モアレ: モカレの母親で、ニカの祖母。足が悪く車椅子生活。
クレス:第23集落に住む、エピラの自称医者

用語紹介

エピラ:南国で生まれ育ちながら北国へ移住した人、北国へ移住したが南国へ出戻りした人を指す。
ダチェル:止血効果のある茶色いひだ状の木の実

 ロウ引きの封筒は、やさしくて、なめらかな触り心地で、以前ニカが読んだ北の森の本と同じ質感だった。

 癇癪のような豪雨がおさまり、分厚い雲は,その色とは反する軽やかさでどんどん小さくなっていく。かわりに白い太陽の光が真上から、豪雨の癇癪の許しを乞うように包み込んでいた。

 太陽が、雨雲を吸い込んでいく。空が、みるみる青に染まっていく。

 「そろそろ帰りなさい」

 クレスは、ニカに視線をあわせてしゃがんでいた大きな身体をゆっくりと起こして言った。

 これ以上、話をしても、きっとクレスは同じ言葉を──自分は父さんの足を治せないが治療するには北の国へ行けと、繰り返すだけだと、ニカは思った。

 ニカは、ダチェルの実が入ったロウ引きの袋を抱きかかえ、赤い扉に手をそえた。

 せっかく、初めて一人で畑の外へ飛び出したのに、なんだか分からないことが増えただけで、見たいと思っていた景色がますます濃い霧に覆われてしまったようだった。

 「クレスが話したことは」

 ニカはクレスを振り返った。

 「どこまでが嘘で、どこまでが本当?」

 居間にある4つの小さな窓から、青空が流れ込んでくる。その明るさがまぶしかったのか、自分に言い聞かせるように、クレスは目をつむった。

 「私は、嘘は言わない。けれど」

 「すべてを話すこともできない」

 ニカは、クレスと交わした会話の中で、最後の台詞が、もっともお腹の奥まで響いてくるのを感じた。

 父さんの足のこと、クレス自身のこと、いろいろ分からないことばかりだけれど、「嘘は言わない。けれど、すべてを話すこともできない」ことだけは、真実だ。

 なぜだか、クレスのその言葉だけは確信が持てた。きっと、クレスが、何かを言いたくても言えない状況なのだと思わせるほど、目を強く、なにかからの視線を逃れるようにつむって、少し怯えているように見えたからかもしれない。

 「分かった」

 ニカはそう言うと、赤い扉を押して、クレスの家を出た。

 激しい通り雨のあとの、ぬかるんだ道に足をとられながら、ニカはクレスの話したことを一つずつ、頭の中で整理した。

 父さんの足は、このままだと治らなくて、命の危険があること。

 しっかり確認できていないけれど、父さんの足からは今も出血していて、しかもその血がなかなか止まらない体質であること。そしてその体質は、クレスの母親と共通していること。

 クレスはエピラで医者だけれど、父さんの足はなんらかの理由で治せないこと。

 父さんの足は、北の国の技術でないと治らないこと──。

 なぜ、南の国では治せないのだろう。

 父さんの怪我の、何がそんなに特別で、危ない状態なんだろう。

 ニカは、崩れかけた煉瓦を、たどりながら、来た道を戻っている──つもりだった。

 けれど、あたりを見回すと、いつの間にか雑木林の中にいることに気づいた。

 考えることに集中しすぎて、すっかり道を間違えてしまった。

 ニカは、急いであたりを見渡した。

 雨のおかげで、自分の足跡が土の上にポツポツと残っていたのが救いだった。

 それを早足で辿るが、途中から地面のぬかるみと足跡のおうとつに見分けがつかなくなり、追跡はほとんどできなくなった。

 「どうしよう」

 誰に向けるともなく、声が出た。

 さっきまで、あんなにクレスに食ってかかっていたのに、まるで別人のような、か細い、頼りない声だ。

 不安を口に出すと、いよいよ一人ぼっちだという自覚が芽生えてくる。

 最近、突然降り出す雨が多い。今は日差しが雑木林のすみずみまで降りてくるが、いつまた先程のような強い雨が降るか分からない。

 明るいうちに林を抜けないと、家に帰れなくなる。 

 ニカは、抱きかかえたダチェルの実を強く胸に押し当てた。

 クレスのところへ戻ろうにも、クレスの家に続く煉瓦の道も分からなくなるほど、歩いてきてしまった。

 塀らしきものも見えない。

 目印は何もない。

 林の中に一人で入ったこともない。

 まるで自分の頭の中のようだ、とニカは情けなくなってきた。

 分からないことばかりで、八方塞がり。

 同じことや教えてもらったことを何度もなぞるばかりで、出口は見当たらない。

 いま自分がいる場所は、林なのに、頭の中に迷い込んでしまったようだ。

 ニカは、胸元に押し当てたダチェルの実のひだが、指や腕に食い込むのを感じた。

 なにかヒントを見つけなくちゃ。ここがどこなのか、せめて林が開けそうな方がどっちか、見分けるヒントを……。

 そう思い、立ち止まっている場所の空を見上げた。木々が風に身を任せて揺れるだけだ。さわさわ、という音は、いつもなら落ち着くはずなのに、今では不穏なものを予感させる。

 この風の音のなかにも、何かヒントはないか。

 ニカは思い切って強く目をつむり、耳をそばたてた。けれど、穏やかすぎる風の音が、通り過ぎるばかりだ。

 どれくらい目をつむって突っ立っていたか分からない。

 ただ、緊急事態のせいかニカは目をつむると同時に呼吸も止めていたことに気づき、思わず息を漏らした。

 どうしよう、と口の中で声にならない声をこぼし、肩が上下する。

 万策尽きたかと、うなだれ、目線を足元に落とした。すると、どこかで見たことのある羽根が、泥に紛れた落ち葉の隙間から覗いているのを見つけた。

 白く、光に当てると虹色に光る羽根。

 どこで見たものだろう。

 ニカは今までの全集中力をかき集めて、一つずつ鳥や羽根を見た記憶を遡った。もともと畑と家と、ときどき街中へ行くだけの生活をしていたニカにとって、鳥を見上げたり、羽根に触れたりする機会は、滅多に訪れなかったから、すぐに思い当たる記憶に行き着いた。

 いつだったか、母さんが豆の行商に行ったとき、お土産で持ってきてくれた羽根だ。

 なんの鳥の羽根だったか忘れてしまったけれど、たしか母さんはあのとき──。

 「鳥には森で暮らす鳥と海で暮らす鳥、それから人のいる街でないと暮らせない鳥がいる。この羽根は、海で暮らす鳥の羽根さ。反射するこの虹色は、魚を獲るときに、海水で体が濡れて重くならないように、身体を守る特別な脂なんだよ」

 海鳥の、羽根だ。

 ということは、この近くには海がある、ということか?

 ニカは突然、一筋の光が見えた気がした。

 海鳥が近くにいるなら、林が開ける場所もそう遠くはないはずだ。

 ニカは大急ぎで、海鳥の羽根が他にも落ちていないか、どろどろの地面を手でかき分けながら探した。

 ニカが見つけた羽根は、まだ白くて毛並みも真っ直ぐだった。

 ということは、抜け落ちて、そう時間が経っていないということだ。

 ニカは爪の奥まで泥まみれになるのもお構いなしに、羽根を探した。羽根は海鳥の足跡と相違ないと、信じて疑わなかったからだ。

 地面を這うように、血眼で海鳥の軌跡を追いかけていると、ニカは何かが焦げるようなにおいを嗅ぎ取った。

 誰かが火を使っている。人がいるんだ。

 ニカは、においの強くなる方へ歩き出した。ダチェルの実が入った封筒も麻のワンピースも泥だらけだが、そんな些細なことは気にしている場合ではない。

 においはだんだん、喉の奥にからみつくような、嫌なにおいになってきた。ただ焚き火をしているだけでは立ち上がらないにおいだ。ニカは思わず鼻をつまみ、においが強くなるほうを目指した。

 すると突然林が開け、ニカの目の前には、天井が崩落した、灰色の四角い箱が現れた。

 その大きさは、クレスが10人縦に連なっても届かないほど、大きな家──というには大きすぎる、見たこともない“箱”だった。

(つづく)

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