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エピラ(14)男の名は

前回のあらすじ

とある北の国と南の国の物語。足を負傷したシマテを救助した、自称エピラの医者を名乗る男を訪ねるため、ニカは一人家を出る。23集落と22集落の出入り口で男と再会し、誘われるままに男の家にやって来た。

登場人物

ニカ: 南の国の第23集落に住む、12歳の女の子。
シマテ: ニカの父親。クル豆農家。第18集落で事故に遭い、左足を失う。
モカレ: ニカの母親。クル豆農家。
モアレ: モカレの母親で、ニカの祖母。足が悪く車椅子生活。
男:第23集落に住む、エピラと名乗る自称医者
シーラ: 第23集落の図書館の司書

用語紹介

エピラ:南国で生まれ育ちながら北国へ移住した人、北国へ移住したが南国へ出戻りした人を指す。

 雨粒が、窓をたたく音。いつもなら不快だけれど、ニカには拍手に聞こえた。

 新しい冒険に出たことを、祝福されているようだった。

 ランプに火を灯した男は、そのまま木の天板で作られた台所へ行き、やかんに火をつけた。

 「座りなさい」

 と、椅子をひいて言う男は、窓から差し込む明かりで左半分が影になっている。

 ニカは黙って、男がひいた椅子に座った。ランプの灯と、分厚い雲で押しつぶされそうな灰色の空の明るさに慣れてきた。

 男は、部屋の奥に引っ込み、何か紙切れのようなものをガサガサと引っ掻き回している音がした。

 ニカはもう一度、部屋の中をゆっくりと見渡した。

 すると、部屋の隅に置かれた黒い箱の近くに、絵が飾られているのを見つけた。

 近くに歩み寄ると、白い絵の具が使われているのが分かった。目をじっとこらし、明るさに慣らした目でだんだんと、絵が暗闇から浮き上がってくる。

 すると、白いシルエットは木と思われる先端が尖った森で、紺色に塗りつぶされた空に、白い斑点が散りばめられていた。

 どこかの森が描かれている。けれど、23集落の辺りでは、こんな尖った木は生えていない。

 男の空想か、はたまたどこかで見た森を誰かが描いたのか。

 ニカが絵を見上げている横で、男は一枚の地図を持ってリビングに戻ってきた。キューッと絞られるような音を上げたやかんの火を止め、ニカの両手では包み込みきれないほど大きなマグカップにお茶を淹れ、ニカが座っていた椅子の前に置いた。

 「ありがとう」

 ニカは男がマグカップを置いて手を離した瞬間に言った。すると、男と目があった。やっぱり、あのエメラルドグリーンの瞳だ。

 なんとなく、どこかで見たことがあるような気がする。けれど、どこだったのか思い出せない。夢のなかか、本の中か、はたまたどこかで出会ったことがあるのか──。

 「ミントティーだ。冷めないうちに飲むといい」

 男はそう言うと、ゴツゴツしたマグカップにミントティーを淹れ、ロッキングチェアに沈み込んだ。

 ニカは、男がミントティーをすする音を聞きながら、自分も椅子に戻って、あつあつのミントティーに唇を近づけた。

 「お前さん、名前はなんというんだい」

 男はニカのほうを見ないで問いかけた。

 「ニカ」

 「そうか。ニカか」

 「おじさんは?」

  男は、一度ニカのほうを見やって、ミントティーを一口飲むと

 「クレスだ」と答えた。

 「クレス」

 「そうだ」

 ニカは、とんでもない世界の秘密を知ってしまったように、胸が高鳴るのを感じた。声に出すと、銀色の髪が雨をたたく窓の明かりを反射して、ミントティーをすする目の前の大男を、ずいぶん昔から知っているように思えてきた。

 「クレスは」

 ニカは、胸の高鳴りのまま口を動かした。

 「エピラというのは、本当?」

 ニカの質問の声に怒りをぶちまけるように、大きな雷が近くで光った。その光を追いかけるように、地面に爆弾が落ちたような音が地面を揺らした。

 「近いな」

 クレスは、ロッキングチェアに背中を預けたまま、窓の外を見た。

 「本当だ」

 「え?」

 「私はエピラだ」

 「北の国に行ったの?」

 「……。」

 雨音が強くなる。せっかく名前を教えあって、近づいたと思った距離が、雨でどんどん遠のいて、かすんでいくようだ。ニカは、背中を見失わないように、追いかける。

 「医者っていうのも、本当?」

 「……。」

 「あの手紙に、父さんの足が悪くなると命に関わるって書いてあったのも、本当?」

 「……。」

 「クレスっていう名前は、本当だよね?」

 「本当だ」

 クレスは、ニカのほうを振り返った。反射して、顔は暗い。怒っているのか、そうでないのか、ニカに判断はつかない。

 「もし本当にお医者さんなら、父さんの足、治せる?」

 クレスの瞳が、時折ゆれるろうそくの明かりできらりと光る。夕立が去った後、若葉の上に残った雨粒のように。

 「それは無理だ」

 「どうして?」

 クレスは、ミントティーの入ったマグカップを窓際に置いた。

 「私の母親も、お前さんの父親と同じ病気を患った。治すには、特別な薬と技術が要る。ただ足の骨を折ったり、肉がえぐれるだけなら、ふつうの医者でも治せる。でも、血と、打ちどころが悪いと、そうなるんだ」

 「血? 血ってどういうこと?」

 「自分が持っている血液の種類のことだ。私もお前さんも、お前さんの父親も、同じ赤い血が流れている。でも、その血にはいくつか種類がある。お前さんの父親の血は、少し特殊なんだ」

 「どうしてそんなことが分かるの?」

 ニカの質問には答えず、クレスは立ち上がり、ニカが座っているテーブルの上に両手をついた。そして、奥の部屋から引っ張り出してきた紙を広げながらニカのほうを見つめ、言った。

 「ここに行け。ここの医者でないと、お前さんの父さんの足は治せない」

 クレスが広げたのは、地図だった。見たことのない、白い大陸。

 「ここはどこ? 隣の集落?」

 クレスは目をつむり、首を横に振った。

 「ここは北の国だ」

(つづく)

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