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「信頼」は、ほんのり冷たい

 おまもりにしている言葉が、いくつかある。

 その一つは「あなたに期待はしていないが、信頼はしている」という言葉。

 「期待はしていないが」という前置きは、ひょっとしたら、無くてもいいかもしれない。けれど「あなたを信頼している」という思いは、相手がうんざりするほど伝えても、足りないのではなかろうか。

 先日、友人たちでおしゃべりをしていたとき、全員共通の友人Aの話題になった。

 Aは、自分の部屋に虫が入ってきても、ぜったいに殺さないのだそうだ。

 おしゃべりをしていた友人たちは、Aのそのふるまいに対し「私は絶対に殺す」とか「自分なら無視する」とか、さまざまに意見──と呼ぶほど、かしこまったものでもないが──を交わした。

 その最中、おしゃべりをしていた数名の一人・友人Bは、Aのことを「彼女は世界を信頼しているから、虫を殺したりしないんだよ」と表現した。

 わたしは、その言葉を聞いて、Bの感性にも感動したし、Aの性格上「確かにAは世界を信頼しているな」と、すとん、と納得した。

 Aは、どこまでもねばり強く、決してあきらめない。

 どんなに理不尽なことを言われても、筋違いな振る舞いを受けても、怒りはするが「でもあの人もいっぱいいっぱいだったのかもしれない」とか「たまたまそういう発言を私が聞いてしまっただけかもしれない」と、言う。

 怒るだけ怒って、相手を否定しまくって悪者に仕立て上げたほうが楽なのに、Aは、その手前で必ず立ち止まる。

 Aの、その人との向き合い方を、わたしは単に「ねばりづよい。忍耐の筋肉がちがう」などと思っていたが「世界を信頼している」という友人Bの表現に膝を打った。

 厳密に言えば「自分が見えている世界を信頼したい」のだと思う。痛みも伴う、いばらの道。でも、そんなAだから、Aを信頼している人もたくさんいる。

 放置することと、信頼することは、まったくちがう。

 けれど、「信頼しよう」とするとき、「放置する」という行動に結びつく人も少なくない気がする。

 誰かを信頼するためには、ごまかさない勇気が必要だと思う。相手に自分の真意をごまかして伝えない勇気、相手の真意を受け止め、うやむやにしない勇気。

 見返りを求めない、一種の冷たさと諦め。

 そう、信頼は、ほくほくと、あたたかく、包み込んでくれるばかりではない。冬の始まりの隙間風のような冷たさが、スッと、かすかに、吹きこんでくる。

 あるがままを、そのままにする。死にゆく虫が事切れるまで、助けず見ている。攻撃はしないが、積極的に助けもしない。求められれば手を差し伸べ、求められなければ最後の吐息の音が聞こえなくなるまで待つ。助けたければ助ける。無情にも見えるが、相手のなにを尊重するかによって、行動は変わる。

 さまざまな「信頼」に、温度があるとするならば、それらの多くは、ただ焼きたてのパンのようなあたたかさだけで、できているわけではないのではないか。

 冬の朝のような、ぴん、と張り詰めた空気が一筋、さしこまれている気がするのだ。 少し冷たさを感じるくらいの「信頼」が、つかずはなれずで、ちょうどいい。

 「信頼」をはき違えて「放置」に転換された例も、いくつか見てきた。

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