血肉化と学び直し
物語を書き始めて、つくづく、自分の器の小ささを思い知る。
ここで言う「器」とは、人がらの意味ではない。感受性の受け皿、とでも言うべきか。
自分のなかから湧き上がるものの、なんて薄弱なことよ。説得力の無さに、何度も書く手が止まる。
自分の感覚だけを頼りにしてつくられた物語は、まるで霧のようだ。何かを言っているようで、何も言っていない。何か言いたげなことだけ伝わるか、むしろそれすら伝わらない。そこまでくると、作品の存在する意味がない。
これまで、たくさんヒントがあったはずだ。知識や好奇心の芽が。
けれど、元来頑固なわたしは、受け取ろうとしなかった。たったひとときの、短絡的で意地っぱりなせいで、こぼれ落としてしまったもの、見て見ぬふりしてきたものの多さに、いまさら、愕然としている。
一方で、年齢に関係なく、器はいくらでも広げられるということも、なんとなく分かる。もちろん、ティーンエイジャーたちのしなやかさには劣るだろうけれど。学ぶのに遅いということはないと、先人たちが背中で示してくれるから、なおさら勇気がわいてくる。
それから「血肉になる」という感覚も、分かってきた。器におさめられた五感の情報は、どれも血肉になっているものばかりだから。
たとえば、北国の暮らしについて、この4年間、かなりいろんなことを「こぼすまい」として過ごしてきた。
山菜の取り方、雪道の歩き方、薪の火の着け方、お茶になる植物、どうぶつの生態系、土の配合、足跡の見分け方、天然林の分布、繊維の染め方や編み方、断熱の構造、寒冷地の車の装備……挙げればきりがない。
「こぼすまい」と感度を高めたままでいられたのは、わたし自身が北国暮らし初心者だったからだ。知ったかぶりはできないし、教えてもらわないと暮らせないような環境だった(冬はマイナス30℃になるし)。
不便だからこそ、生活の知恵が、あちこちにあふれていた。同時に、それらが知恵として根付くまでの自然の変容と開拓の歴史も、北海道という土地柄ゆえか、かなり生々しく肌身にせまってきた。
五感をとおして肉体の動きと知識が連動した瞬間、それらは記憶された頭の中だけの情報ではなく、血の通った、身体ぜんぶで覚えている情報に変わる。腹落ちする、とはつまりその状態とも似ているのかもしれない。
「旅人は、持てるだけ持って帰れる」とは、誰の言葉だったか忘れてしまったのだけれど(ここでも“とりこぼし”ている……)「持てるだけ」というのは、感受性や好奇心の範疇の許容範囲を指すのだと聞いた。荷物ではなく、「旅で得たもの感じたものはその人の器量によって、受け取れる質が変わる」という意味だと。同じ場所に何度旅しても、旅人の視点が違えば受け取る情報も変わるし、持って帰るものも変わる。だから、旅はおもしろいし、器を大切にする人にとっては、重要な行為なのだと思う。
血の通った情報を受け止めるだけの器を、創作という別次元に展開しようとしたら、思ったよりもすっからかんで、「あれ?」と戸惑っているのが、ここ数日の話。
だからいま、創作をしながら、いろいろなことを“学び直し”して、器の拡張工事をしている気分だ。
もしかしたらわたしの感覚に時差があって、何かの拍子に、かつて血肉になった情報をふたたび思い出すこともあるかもしれない。すっからかんに感じるのは、創作という、今まで逃げてきた次元に、後先考えず丸腰で飛び込んだから、言語化が追いついていないだけなのかもしれない。知らんけど。
受け取ったものごとを、血肉にする段取りの一歩としてメモをとるようにした。2021年はメモ魔になる、とひそかに決心したほどだ。
スマホでもノートでも、嬉しかったこと、悲しかったこと、イライラしたこと、疑問に思ったこと、教えてもらったことなど、忘れないようにメモをする。なるべく、客観的かつ具体的に。写真もなるべくたくさん撮る。あとで見返せるように。以前もやっていたことだけれど、より意識して、五感を澄ましていたい。
もう一回、仕切り直しだ。
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