エピラ(11)小さな冒険のはじまり

前回のあらすじ

とある北の国と南の国の物語。行商の途中、左足を負傷したニカの父・シマテは近所の小川で溺れているところを謎の男に助けられる。男はエピラの医者だと名乗り、シマテの足が病を引き起こすと忠告した書置きを残し、家を去る。家族で唯一文字の読み書きができるニカは、集落にあるガジュマルの図書館へ通うのが唯一の楽しみだった。

登場人物

ニカ : 南の国の第23集落に住む、12歳の女の子。
シマテ: ニカの父親。クル豆農家。第18集落で事故に遭い、左足を失う。
モカレ: ニカの母親。クル豆農家。
モアレ: モカレの母親で、ニカの祖母。足が悪く車椅子生活。
男  : 第23集落に住む、エピラと名乗る自称医者
シーラ: 図書館司書

用語紹介

エピラ:南国で生まれ育ちながら北国へ移住した人、北国へ移住したが南国へ出戻りした人を指す。

 そのうち、豆売りの予定がなくても、ニカはガジュマルの図書館に通うようになった。シーラは、ニカが何も言わずに図書館に入り浸っていても、何も言わなかった。

 ニカと同い年くらいの子どもは、ほとんどが親の仕事を手伝う。集落には学校も、一つだけある。行きたい者だけが、学校へ通う。必ず行かなければならない決まりはない。

 ほとんどの子どもたちは、家族の商売を通して、お金の計算、駆け引き、商談、流通の仕組みなどを学ぶ。農家が多い第23集落では、作る人と売る人に分かれていることが多く、シマテとモカレのように、自分たちで作って自分たちで売り歩く農家は、めずらしい。

 だから、図書館には子どもは、ほとんどいない。いるのは家業を次世代に明け渡した老人か、作物の研究をしている科学者、もしくはニカのように、ありあまる時間をもてあましながらもじっとしていると足から腐ってしまいそうな居心地の悪さをかかえた、ごくわずかな子どもたちだった。

 子どもといっても、そのほとんどはニカよりも歳上だ。初潮を迎えれば集落の外へ行けるようになる。だから、ニカが彼らと言葉を交わすまえに、図書館に来なくなった。家族について他の集落へ引っ越したのか、誰も知らない。

 どんな人と図書館で顔を合わせても、ニカが言葉を交わすことはなかった。自分から話しかけることも、話しかけられることもない。放置されているわけではないが、馴れ馴れしさもない。おのおのが、本の世界に集中している、ある種の排他的な人々が集まることで生まれる安心感が、ニカは好きだった。集落の中にいるけれど、集落の外にいるような心地がした。

 それに、行商に連れて行ってもらえなくても、一人家出をするお金がなくても、本の数だけ旅ができた。シーラの歌う声で読み聞かせてもらうのも、湖を泳いでいるようで好きだったが、シーラに習った文字は、ニカを、より濃い彩りを持つ場所へ連れて行ってくれた。

 集落から出られなくても、満足だと、ニカはどこかで言い聞かせていた。けれど、ひとたび本を開くと、いかに自分が世界の片隅にいるかを思い知らされる。

 いつかこの集落を出て、遠いところへ行ってみたい。母さんや父さんも行ったことがないような、遠い、遠いところへ。

 毎日、豆が生まれて青々と実をつけ、風に吹き荒ばれて乾くまでじっと待ち、収穫してまた土を起こす──その心臓の鼓動のように乱れない日々の周波数を突然大きく揺らしてきたのが、あの男だった。

 エピラの医者と名乗る男──。

 そんな人が、同じ23集落に住んでいるなんて。

 ばあちゃんも知らないって言っていたな。でもあの噂好きなばあちゃんが、エピラを放っておくわけがない。

 ニカは、男から預かった書き置きを握りしめたまま、なかなか眠れなかった。

 知らない間に目を閉じ、次に開けたときはもう朝だった。夜風に舞うのれんを、マントのようにたなびかせて立つあの男の顔が、影になってよく見えないまま、ぼやける輪郭をつかもうと目を細めたり見開いたりしていたら、それが夢だと気づいた。

 ベッドを降り、目をこすりながら居間へ行くと、すでにガラスのピッチャーにパイナップルジュースが注がれていた。モカレは市街地へ出かけていて、モアレは行商でシマテたちが持ち帰った売り上げの帳簿をつけていた。

 「いま起きたのかい。気楽だねえ、ニカは」

 朝からモアレの嫌味を、聞いていないふりをしながらジュースを一杯、一気に飲み干す。

 寝ながら握りしめていたせいで、書置きがやわらかくしめっている。結局、シマテにもモカレにも、この書置きのことは知らせていない。

 本当に、父さんの足はそんなに危険な状態なんだろうか。

 ニカが過去に読みふけった物語の中には、足から全身に感染する病は出てきたことはない。ただ、エピラと名乗ったあの男の、エメラルドグリーンの瞳は、かなしいほど真っ直ぐだった。目を背けてはならない真実を告げるために、わざわざ南の国の果ての果てからやって来たかのような、何かを諦めているのか、希望を信じているのか、とにかく嘘はないと、ニカは直感した。

 水場の掃除を頼むよ、というモアレの声がする。

 ニカは顔を洗うために水場へ出て、第23集落の北側を見つめた。

 活火山のタビラ山が、過去数万年もかけて作り出した稜線が、朝日に縁取られている。いくつか小さな山がそびえ、その一番低い丘のふもとに、ちょうど第22集落との門がある。門は、場所によってボロボロで無人化しているものも多いが、あのあたりは山の動物たちも多く棲んでいるから、人間はあまり近づかない。

 男は、あのふもとに住んでいるのだろうか。

 本でしか旅をしたことがないニカは、集落の中すら、ほとんど出歩かない。火山の近くでも日々灰が降ってきたり、土の手入れをしたり、両親の見様見真似が楽しかったから後を着いてまわっていたが、気づいたら遠くへ行けるのは本の中だけだと錯覚していた。

 けれど、行けるのだ。行こうと思えば、どこへでも。

 ニカは顔をふいて、水場側の裏口からこっそり家を出た。あの書き置きを、しっかりと握りしめて。

(つづく)

余談

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 今回は、この物語を思いついたきっかけ、その1です。

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