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「わたし、友だちいないんだよね」と言う鈍感力

小学生くらいのころ「わたし、友だちいないんだよね」と言う子がいた。

別々の子から同じ台詞を聞いた時、その発言に対してムワッとした不快感を覚えた。

「わたし友だちいないんだよね」と、わたしに向かって言うならば「じゃあわたしはあなたのなんなの?」と思わずにはいられなくて、なんだか「友だちがいない」と言うその子が顔も見えないほど遠くに行ってしまって、わたしは一人取り残されたような気持ちになった。

彼女たちの多くは言わずもがな、さびしがりやだったのだと思う。

「そんなことないよ、わたしはあなたの友だちだよ」と言うわたしの返事を心のどこかで期待して、そう言ってもらうことで安心したかったのかもしれない。

でも当時のわたしは自分のことしか考えていなかったから「わたし友だちいないんだよね」と言われたら不快感を覚えて黙りこくり「そっか、じゃあわたしはあなたの友だちじゃないのか。残念だ」と心の中で突き放す、ただの子どもだった。

大人になって、彼女らがどんな気持ちでその台詞を言っていたのかをふと考える機会があった。

わたしは、大人数でワイワイするのが、そんなに得意じゃない。

本当に、お腹を見せたことのあるような人たちが5、6人くらい集まった規模であれば問題ない。

けれど、まだ会って間もない人たちや初対面の人ばかりの大人数の飲み会だとかパーティーみたいなのに呼ばれると最初の30分だけ緊張感と高揚感できりりと立ってなんとかコミュニケーションをはかるものの、30分で電池が切れ、会場の隅っこで座っている、ということもしばしば。

人が多いと、情報量が多くなる。

服装、仕草、食べ物の配置、お酒の量、飲み具合、話し言葉、話されている内容、交差する視線に含まれた誰かと誰かの秘め事………なんてものがいちいち気になって、クラクラしてくる。

だから結果的に全体を俯瞰できるところにおさまりがちで、グループから離れたところでポツン、と一人座っているという構図が出来上がる。

大人数の、大きな輪の中に入ることができない。できないというより、その遠く離れた距離感が、一番落ち着く。

イベントやお祭りは大好きだけど、祭りもイベントも、できることなら裏方として関わって、ワイワイ楽しそうにしている人たちを遠くから見ている方が、うんと好き。

群れることで安心できるならどんなにいいだろうと思った時期も、少しあった。

でも人は、誰かが近くにいてもつまるところ永遠に孤独だ。

「わたし、友だちいないんだよね」という彼女たちは、誰といてもその孤独の穴を埋めることができなかったのだろう。

自分が一緒にいて安心する人や、人との心地よい距離感を、知らなかったのかもしれない。

「わたし友だちいないんだよね」とこぼしていた日からは、もう15年ほど経った。

彼女は、自分で自分の孤独を抱きしめる術を体得しただろうか。

それともまだ、自分の孤独を誰かの存在で、必死に埋めようとしているのだろうか。

歳を重ねると、「わたし友だちいないんだよね」というセリフとはまた違った形で、自分の孤独を慰めてくれるよう要求してくる人がいる。

でもかなしいかな、わたしたちはたいして人の話を聞いていない。そんなに他人に興味ない。

というより、自分の興味のある人としか付き合えない。

孤独を吊るし上げて「ほら、見て、わたしこんなに一人ぼっち。さびしいよ、なんとかしてよ」と言われたところで我々は自分の孤独と向き合うことで忙しい。

着地点がある話ではないのだが、でも「わたし友だちいないんだよね」と言えてしまうのは、孤独な世の中を生き抜くある種の鈍感力なのかもしれない。

そんなふうに、素直にさびしさを訴えられたらどんなに楽だろう、と思うわたしはやっぱりまだあの頃から成長していない冷たい子どもなのだろうか。

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