絶望がデフォルトの世界で #ラトビア日記 26週目
2024年2月19日 「先進国」なんて言えない
ジェンダーの授業の宿題である、レポートを書いている。
違う世代の、日本人女性たちにインタビューするという課題。
まとめる際、避けては通れないのが、セクハラや痴漢の話。
英語でレポートにすると、その異常性がよく分かる。
心底うんざりする。うんざりという表現でも軽い。
ただ、この授業の先生は日本でジェンダーの研究をしていたこともあるから、きっと「日本ではどう?」と聞かれるに違いない(聞かれないかもしれないが)。
教室で「日本では痴漢が……」と発表するなんて、あまりにも低レベル。ダサすぎる。「日本は先進国」なんて「どの面下げて?」と思う。
セクハラや痴漢に、違和感や疑問を感じても、あまり興味がない人もいると思う。「セクハラに遭うのは、それだけ魅力的だからだ」などというセリフも散見されるが、なぜ「男性に性的な目で見られること=魅力」という方程式が成り立つと思っているのだろうか?
もしこうした事実を、海外に暮らす人たちに説明するとしたら?
常習的すぎて麻痺してしまった感覚は、距離を置くと鮮明になることがある。ぜひ試してみてほしい。
2024年2月20日 “高みの見物感”から脱したい
ヨーロッパでインターンやアルバイトを考えていたが、予定を変えることにした。
もちろん学校はきちんと卒業しようと思ってはいるけれど、どうしてもヨーロッパの“高みの見物感”が否めない。当事者になることはできないけれど、分からないことを分かろうとすることを諦めたくない。
心身の安全が保障されていることは最低限のはずなのに、その最低限が脅かされている人たちもいる。
しかも、その原因の多くが人為的なものだ。
戦争や気候危機の情報を追い続けると心がすり減るから、適切な距離感をとるように意識する。
けれど「人道とは。人権とは」という問いかけが、グレーの薄い雲になって常にどこかを漂っている。
2024年2月21日 2月が光の速さすぎる
え、ちょっと待って。
来週で、2月終わり?
早くない?
もう3月? え? ……え??
マイナスまで下がる日がだんだん減ってきて、日の出も7時代になった。12月は9時に日の出だったことを思うと「よう生き延びた」と自分で自分を褒めたくなる。
ラトビアに来て、特に冬が本格化して以降、カッサでツボ押しマッサージをはじめた。
血流をよくして身体をあたためようという作戦。
ついでにむくみやこりも取れていい。お気に入りの動画を見ながら、ゴリゴリマッサージできるのもいい。
でもそろそろ、また森か山に行きたいな。
日本の深い山が、ちょっぴり恋しい。
2024年2月22日 クリスマスにケンタッキーを食べるのはなぜ?
今週は、授業中のディスカッションが多い。
特に後半の授業では、日本のクリスマスに関するテキストが教材に含まれていたため、他の学生があのテキストをどう読んだのかがとても興味深かった。
課題のテキスト自体は1990年代後半に書かれたものだから、わたしからしてもファンタジーに映り「こんな時代もあったのね」という内容。
サンタの格好をした子どもや女性が広告に出演することに、著者はおどろいていたけれど、わたしは驚かれたことに驚いた。
たいていいろんなことに「なんでだろう」と思っているメンドくさい性格だけれど、サンタコスに対して疑問を持ったことはなかった……。クリスマスだし楽しみたいよね、くらいで。
クリスマスはカップルのもので、お正月と抱き合わせで東京のさまざまなデパートではクリスマスに向けた贈り物や飾り付けがならび、それらを宣伝する広告やメディア報道であふれ、しかしクリスマスが本来何のイベントだったのかは語られず、ヨーロッパのクリスマスマーケットの写真などがその広告や商品の魅力を強化するものとして展示されていた──というようなレポートだった。
さらに「ケンタッキーフライドチキン」がクリスマスのごちそうとして日本で浸透していることが例に挙げられ、「なぜこのようなイメージが根付いたのか」をディスカッションした。
最近はSNSで「我が国あるある」「カルチャーショック」などがネタでよく取り上げられるから、ご存知の方も多いかもしれないが、ケンタッキーはそもそもファーストフード店の一つで、高級志向の人々が行く店ではない。
けれど日本では「ごちそう」として認識され、多くの人がクリスマスのために予約までして、チキンを買う。
店頭に立ち、サンタコスさせられたカーネルサンダースが、本来どういう人物なのか、ほとんどの人が知らずに、チキンを買う。
ケンタッキーのPR戦略については、すでにたくさん記事が出ている。
ここからは、これらに含まれていないであろう、わたしの持論(妄想)です。
クリスマスのごちそうといえば七面鳥だ。
けれど日本には、七面鳥を買って調理できるような大きなオーブンがない家が多い。
さらにケンタッキーのこのクリスマスPRが始まった1970年代後半は、核家族化がすでに着々と進んでいた。そのため、一世帯あたりの家はおそらくそこまで大きくない。
だから本家のクリスマスのごちそうをそのまま日本にローカライズするには、少し無理があった。
また、これは地域差や個人差があるが、大皿で料理をシェアしながら食べるという行為自体、お祭り感があるのではないかと推測する。
ひとりにひとつ、お茶碗のお味噌汁のお椀、おかずがはいった平皿、というような和食のスタイルはめずらしくない。
さらに先ほどの核家族化の影響で、食事を大皿でシェアする機会も減った。
そこでクリスマスという特別な日に、外食に近い非日常感と、いつもよりたくさん入ったチキンを家族や友人とシェアする特別感を味わえる、大きめの容器に入った手軽に食べられるチキンたち──便利やん?!となったのではないだろうか。
ケンタッキーのクリスマスに関するCMは、絶対に誰かとシェアしている映像だ。七面鳥ほど手間がかからず、鶏肉を食べられる。しかも日本食の味付けではなくアメリカナイズされたお味で。
メディア戦略の完全勝利のよい例だ。
カーネルサンダースの、白い髭が生えて大柄な風貌も重要だ。外見が細身のぼうずの男性とかだったら、絶対にこんなに上手くいかないと思う。むしろケンタッキー側も、クリスマス商戦に打って出るという発想にすら、ならなかったかもしれない。
さらにさらに、サンタ、クリスマス、というものが日本に輸入されてきて、宗教的な文脈がほぼ抜け落ち、ヨーロッパのクリスマスマーケットの装飾や店の料理、キクリスマスツリーのかざりなどのキラキラしたイメージは、日本のパッケージ化カルチャーにうまくハマったのだと思う。
人の属性をカテゴライズして名前をつけたり、感情などの無形のものを擬人化してイラストにしたりすることに長けている。
EMOJIがこれだけ普及しているのも、一つのシンボルやアイコンに要素を凝縮して表現するのが得意な証拠のような気がする。
クリスマスの文化に付随する様々な「シンボル」は、輸入後徐々にパッケージ化され、サンタは赤い服を着たプレゼントをくれるおじいさんとしてキャラクターに昇華された。キャラクターにならないと、コスプレの対処にはならない。カーネルサンダースは、パッケージ化するのに、ちょうどよかった……という説は、どうでしょう。
今日も2つのコースを受講。どちらもディスカッション。
しかも一コマにつき、事前に読んでおくテキストが3〜4本があるから、昨日の分も合わせたら一週間で10本以上読んだことになる。しかもぜんぶ長いし内容が重い。
そのせいか、帰宅後ぐったりしてしまった。
今日は目覚ましかけずに寝よう。
2024年2月23日 曇りだと行動力半減
曇り……。家に引きこもる。
なんとなく、外出したら次の日は引きこもる、というルーティーンが続いている。
ただ、身体を動かさないと、せっかくあたたかくなってきたのに、なまってしまう。
目的もなくフラフラ散歩していたが、冷たい雨が降り始めてすぐ退散した。
2024年2月24日 美味なりラトビア料理
ラトビア大学で、学園祭がやっていると教えてもらい、キャンパスへ。
さすがに、日本の大学祭によくある焼きそばやたこ焼きのような出店はないだろうと思ってはいたし、実際なかった。
パンフレットもラトビア語で、英語のサブタイトルは無し。
どうやらラトビア大学に入学したい学生向けの説明会としての役割が強かったみたい。
言語学科のブースは、1つの教室にテーブルが円形に並べられ、フィンランドやギリシャ、アジア、ポーランドなどの学生と教授が、それぞれの言語に興味のある学生に向け、説明していた。
ラトビア語のブースで、ラトビア語の西と中央部、南東の方言を教えてもらった。
西側は子音が消えるような、スタッカートが効いた発音で、南東は少しまるい、流れるような発音で、同じラトビア語でもぜんぜん違うんだなと思った。
にぎやかな雰囲気を体験して「あ、わたし大学に所属していたんだ」ということを思い出した。そういえば大学生のころ、自分の通っていた大学の学祭すら、行ったことなかったな……。
キャンパスを後にし、ラトビア料理を食べられる「LIDO」へ。
朝から何も食べていなかったので、オムレツとソリャンカ(スープみたいなもの)とコーヒー、パンを選ぶ。合計8ユーロ。
オムレツは分厚くてボリューム満点だったから、じゅうぶんお腹いっぱいになった。
「LIDO」は店舗によって学割が効くとか効かないとか……。
基本的に食事は自炊だけど、せっかくラトビアにいるのだし、ときにはラトビア料理を味わうくらいの心の余裕があってもいいのかも、と思った。
2024年2月25日 強烈な実体験がなければ発言してはいけないのか
2月24日は、ロシアのウクライナ侵攻が始まった日。
昨日で、開戦から2年経った。
何度もnoteで書いているが、ラトビアに来てから、戦争がグッと身近になった。
ふだん生活をしていて、身の危険を感じることは、まったくない。
けれど、日々のニュースや情勢に関して情報を集めていると、最悪の場合も頭の片隅に入れておかなければならない、と思う。
ひるがえって、日本。
わたしはいつも、朝起きるとまずLINEをチェックする。
これは、ラトビアに来てから変わらない。
ラトビアと日本の時差は、7時間。
この7時間で、とんでもないことが起こっていないかを確認するために、まずニュースや、家族や友人からの連絡を一通りチェックする。
ここ最近、日本に関するニュースは、言葉で表せないほど歯痒くて、やるせない思いにさせられることが多かった。
もしかしたら、そういうニュースを無意識に追ってしまっているのかもしれない。
でも、日々さまざまな文化や歴史と向き合う勉強をしていると、日本に対して誇らしかったり改めて興味がわいてきたりする頻度と同じくらい「どうしてこうなってしまったの」と感じることも多い。
けれど、絶望しても途方に暮れるだけでなく、意思を示すことの重要性は、ラトビアに来てから肌で感じた。
ロシアと国境を接しつつも、やっとの思いで独立し、自分たちの国を築き上げたラトビア。
ウクライナへの強い支持、ロシア語の排除、ラトビア語の強制など「ラトビアがラトビアであり続けるため」の、具体的なアクションがいくつもある。
もちろん、こうした政策や風潮によって、肩身のせまい思いをする人たちもいる。
けれど、意志を堅持し続けないと、また自分たちの尊厳が奪われるかもしれないという緊張感がある。
そうした姿勢に刺激を受け、ラトビアに来てから(来る前からもゼロではなかったけれど)意図的に(特にSNS上において)意志を示す癖をつける訓練を始めた。
意思を示さないと生きる尊厳を奪われると思ったから。半分比喩で、半分本気で。
しかも突然ではなく、じわじわと真綿で首を絞められるのだ。
いつの間にか、お金も仕事も無くなって、家族や友人にも会えなくなる。そういう世界線が、現実のすぐ隣で走っている気がする。
意思を示しても殺される世の中になってしまったというよりは、そもそももともとそういう人たちがいても、わたしは見向きもしなかっただけ。遠く離れた国だから、関係ないとスクロールしていただけ。
声を上げること、意志を示すことが、ヒステリックでリベラルで“意識高い系”などといまだに揶揄され続ける。
でも本来、意志を示す行為は、とてもこわいのだ。そしてそのこわさは、意志を示してこそ分かる。足のすくむ思いがするかもしれない。
わたしは特定の専門家でもないし、勉強すればするほど、知らないことの多さに呆然とする。
けれどもともと、社会的な問題に関心が強かったことを、ラトビアではためくウクライナの国旗を見ながら、改めて思い出した。
演劇を好きになったのも、物語を通じて現実の理不尽さを暴き「なぜこんなことが起きてしまったんだ」という強烈な怒りと口惜しさを投げつけられたからだ。
演劇を通じて、わたしが感じる理不尽が、誰かの怒りとつながったとき「一人ではない」と思えた。ただそれだけのこと。
演劇だけでなく、守られるべきものが守られていないことに憤り「納得できない」と怒りをたずさえ、矢面に立って闘っている人も好きだ。
わたしがまったく知らないなことに、とても詳しい人の話は、いつも勉強になる。ただそれだけのこと。
学べば学ぶほど、こわくなる。でも、学ぶことは辞めたくない。学ぶことを諦めないと、ここに書くことも、わたしなりの意思表示だ。
誰もが完璧な知識を持って、正論を説けるわけではないのだから、おそるおそるでも、いいと思う。
どなたか忘れてしまったが、日本の俳優さんで「僕らが作品を作れるのは平和の証拠」とおっしゃっており、まさにその通りだと思った。
日本を好きだという人のほとんどが、マンガやアニメを好きだというが、これらは平和だったから豊かに育つことができたのだ。
漫画やアニメだけでなく、おいしいごはん、あたたかい家、ふかふかのふとん。これらはぜんぶ、平和の証だ。
一方で、目の前の生活が、どれほど他の世界と繋がっているのか実感がわかないという気持ちも分かる。
わたしたちは、日々身の回りで起きるさまざまなことに忙しい。
仕事がつまらない、恋人とうまくいかない、家族と喧嘩した、将来が不安。ぜんぶだいじだ。
すこやかな暮らしを手に入れるためには、なるべく自分の心も体も健康でありたい。
身の回りのことを、煩わしいけれど一つずつ、向き合ってみると、いつのまにか視界が開けていることもある。
世界でなにが起きているかなんて興味ないという人が、日々の取るに足らない違和感を「取るに足らない」と無視せず、ちょっと手に取ってみるだけでも、大きく変わる。自分が満たされて初めて、顔を上げることができると思うから。
変えられそうなことから変えていく勇気が大事だと思う。悪口を言う人から離れるとか、新しい趣味にチャレンジしてみるとか、なんでもいい。
家族や友達、同僚や恋人に違和感を打ち明けるだけでも、ものすごく勇気のいることだと思う。「政治について話題にしたら引かれるかな」と。
でも、全部つながっていることだから。いずれ、自分にも返ってくることだから。戦争が始まってから戦争を話題にするのでは、遅い。
平和を失ってから平和の大切さを説くのでは、もう遅いのだ。
違和感と向き合うために、物の力を借りてもいい。
たとえばわたしは、数年前にガザの女性たちの手刺繍がされたバッグを買ってから、いまも使っている。
けれど。
モノもない、知識もない、体験もない、興味もない。
そういう人たちに「世界では紛争が起きていて……」などと説明したところで、ファンタジーにしか聞こえない。
すべてが地続きであることを、万人が理解できる状態なんて遠い理想だ。
ラトビアのように、意志を示し続ける矜持が、日本にはそこまでない。
あっても的外れだったり、筋が通っていなかったり、政治と民意の温度差と認識の溝が、マリアナ海溝レベルに感じるのは、わたしだけでしょうか。
けれど、ふだんの生活で理不尽や不公平に直面したり、不信感、不安感を抱えたりしている人は多いはずだ。
どう考えても給料が低い。痩せたい。結婚しろ子作りしろとプレッシャーを与えられる。受験に失敗したら人生が終わってしまう。なんとなくしんどい。生きている意味が分からない。
これらの不信や不安は、自ら行動を起こさないと、脱せない。被害者でも「守ってほしい」と声を上げなければならない。声を上げるまでが、長い長い道のりだというのに。
年齢や立場を問わず自律を促して自己責任に終始させる、そんな殺生な社会があるだろうか。
これらの無責任は、政治につながっているのです(政治家ではなく政治です)。生活の理不尽は、わたしが声を上げなかった結果でもあるのです。もちろん、それだけではなく戦争だって、政治に、そして、わたしたちの生活につながっているのです。
違和感に気づく、その一歩の延長線上に、地球の裏側で流れる血が滲みている。向き合うのはこわい。でも、なにもかも無傷では生きていけない。なにもかもと無関係ではいられない。
……と、ここまで書いても、わたしには、この地続きを、わかりやすく解き直す能力が、まだないなと思う。もっと勉強しなければならない。
わたしは一体、誰の怒りと、向き合えているのだろうか。
※本noteのタイトルは、こちらのnoteからインスピレーションを受けて表題とさせていただきました。ぜひご一読を。
おまけ: ラトビアで食べたアジア料理
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