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「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」

『太陽の塔』を観て以来、ずっと心に留めている絵画がある。

ポール・ゴーギャンの『D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?』という作品。

和訳は「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」。

この絵画を知ったきっかけは、忘れてしまった。

何歳だったか覚えていないけれど、この絵のこと知ったとき「あのゴーギャンも、同じことを考えていたなんて!」と感激し、ずっと覚えていた。

絶望しているような、何かを諦めているような表情の女性や、産まれたばかりの赤ん坊、果実を取っている中央の人物、白い像──こうしたモチーフのほとんどは、ゴーギャンが暮らしていたタヒチでの生活で描かれたものが元になっていると言われている。

左右の上には金色に塗られた余白があるからか、どこか屏風のようにも見える。

ちなみに、ゴーギャンはこの絵を描いた直後、自殺未遂をしている。

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芸術家の作品や生き様は、受け取る人にとって役割や意味が変わるから、おもしろい。

ときには、何の価値も意味もない、というのもふくめて。

このゴーギャンの絵画の場合は、わたしにとっては代弁者のような存在だ。

時代を超えて、何十年も、ときには何百年も前の人たちが、いま自分がかかえている思いと似た苦悩だとか喜びだとかをそのままぶつけている作品を見つけると、こころから救われた気持ちになる。

「ああそうか、あの偉大な芸術家も、わたしと同じようなことを思いなやんでいたのだ」と。

絵を見たところで、問題は何も解決されない。

何も答えがなくてもいい。答えをもらえることは、期待していない。

ただ物思いにふけっていることを、肯定されている気分になるだけ。

『太陽の塔』を観たとき、岡本太郎も似たようなことをテーマにしていた。

「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」。

映画の中で、岡本太郎が日本中を旅するようすが紹介されたけれど、それを観ながらゴーギャンの絵画のことも思い出したのだった。

我々はどこから来たのか。
我々は何者か。
我々はどこへ行くのか。

もう何百年も、なんなら何千年も、人間はずっと同じ問いを繰り返している。

その軌跡と孤独を、表現し続けてくれた人たちがいたから、わたしも安心して考え続けることができるのかもしれない。

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立花実咲|Misaki Tachibana
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