恋(乞い)する乙女よ、何処へゆく
言葉は、呪いにも魔法にもなる。
本当に、つくづく厄介だと思う。
しかも年齢を重ねれば、大した厚みのない言葉でも、それっぽくごまかせてしまうこともある。
言葉で誰かを失墜させることもできれば、言葉で誰かを救うこともできる。
慎重に選びたいと思いながら、全くどうしてうまいこといかないのかなあと、毎日ちょっとずつ、自分の言葉を、反省したり、悩んだり。
言葉なんてなくたって、森羅万象には差し支えないはずだけど、そんなこと、人間はとっくに気づいていて、それでも言葉を使うのをやめない。
呪いにも魔法にもなるその武器を持って、世界の深淵を覗こうと試行錯誤している。何百年も、何千年も。
その経過の最中、あらゆる生活と目論見で、覆い隠されてきた、言葉の起源。
言葉に託された人の業と諦観、そして希望を垣間見るのが、本当に好きで、その垣間見の術の一つが「言葉遊び」だと思っている。
言葉を以って、言葉を使う生き物としての秩序を築こうとしているような、白黒つけられないグレーな心理や現象を、体系立てて紡いでいこうとしている、人の泥臭さのようなものを、言葉遊びから感じるから、だろうか。
このまえ『異界を旅する能』という本を読んでいたのだけれど、そこで登場した言葉の源流のエピソードが、たまらなく、そそられた。
「たび」の語源は「賜ぶ」だという説がある。道行く人に「もの賜べ」と、食事や宿を乞いながら旅をする。すなわち「乞う旅」、物乞いの旅だ。(安田登著『異界を旅する能』p87 引用)
釈迦やイエスもそうだった。両祖の末裔たちは寺を持ち、あるいは大聖堂なども持つが、しかしその宗祖はひとつ屋根の下に安閑と暮らすことに満足をせず、物乞いをしながら放浪をした。そして放浪の漂泊者はみな乞食だった。彼らの本当の乞食の行こそ、まさに「乞い」であり、そして「恋」なのだ。(安田登著『異界を旅する能』p100 引用)
「恋」とは、ただ誰かを好きになるというだけでなく、自分の中の大切な何かが抜け落ちて、ぽっかりと穴があいてしまったような魂の欠落感だと言ってもいい。(安田登著『異界を旅する能』p101 引用)
旅と恋はそれぞれ、「賜ぶ」「乞う」という意味を含んでいる、というお話。
旅や恋で追い求めるものは、決して手に入ってはいけない。
手に入れたいと乞い願うのに、手に入ってしまえば乞い願う必要も無くなって、「恋」でも「旅」でもなくなるから。
以前、わたしが書いた、これ。
・旅は何かを得るものか、それともすべてを捨てるものか|Misaki Tachibana|note
『異界を旅する能』の中の話は、わたしの漠然とした「旅をしたくなくなることへのおぼろげな不安」に対する、返り事のようだった。
基本的に、まん丸100パーセント満たされていることなんて、皆無だ。
いつも何かが欲しいし、あれもしたいこれもしたい、どうしたいああしたい、欲望まみれの俗物で。
劣等感の塊だった20代前半は、常に自分が「周りの人たちよりも何もかも足りていない出来損ないの劣等生」だったし、だけど一方で「まだまだいける、自分はこんなもんじゃない」と信じていて疑わなかった。
ねじれた自尊心と焦燥感を携えて旅をして、不足(才能とか知識とか)を補おうとこいねがって、でも旅をしたところで結局これっぽっちも手に入らなかった。
その代わり、旅では違うものを得た。
旅をやめると手に入るものがある、という拍子抜けな発見も、あった。
それらは、特に期待せず、不意に手の中にあったものだ。
「恋」も同じだ。
よく「恋は下心、愛は真心」と漢字を由来にした決まり文句があるけれど、それも言い得て妙だと思っている。
下心しかない恋は大抵うまくいかなかったし、満たされることもなく、相手の気持ちや態度がどうのこうのと不安しかなくて本当に疲れたし全然楽しくなかった。
焦燥感や劣等感は、今でもある。
でも欠落感から「乞う」のだという、現象と言葉の源流が分かれば、そのスパイラルを断ち切ってくれる。
「恋」とか「旅」とか、こういう言葉遊びは言ってしまえば、単なる親父ギャグとして一掃できる話だ。
でも、やっぱりどうしても切り捨てられない。
こうした同音異義語のペアリングを見つけては「ああ、だからか」と思う。
逆に、太陽燦々(さんさん)の「燦(さん)」は英語では「sun」でもある、とかそういう小さな発見であっても国をまたいだ同音類義語を見つけたら「ああ、そうか」とも思う。
見ている世界は、言葉が違ってもどこかで繋がっていたり、現代の意味は違っても言葉が生まれた当初の本質は実は似ていたりするのかな、と思うと希望がわいてくる。
理由もなく、ただ求めていることとか、わけもなく不安なこととか、実は言葉の根っこにヒントが眠っていることがある。
言葉が呪いになるのは、言葉の意味の表層に取り憑かれたとき。
言葉を因数分解して、時を少しさかのぼれば、どうしようもなく「乞い」、「賜べ」ずにはいられない理由が、もしかしたらほんのりと見えるかもしれない。
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