エピラ(8)消えた片足の置き土産
前回のあらすじ
とある北の国と南の国の物語。豆の行商の途中、立ち寄った酒場でエピラと口論になり、左足を負傷したニカの父・シマテは過去の思い出からエピラを毛嫌いしている。エピラを憎む理由を聞かれ、動揺したシマテは娘のニカに手をあげてしまう。
登場人物
ニカ: 南の国の第23集落に住む、12歳の女の子。
シマテ: ニカの父親。クル豆農家。第18集落で事故に遭い、左足を失う。
モカレ: ニカの母親。クル豆農家。
モアレ: モカレの母親で、ニカの祖母。足が悪く車椅子生活。
用語紹介
エピラ:南国で生まれ育ちながら北国へ移住した人、北国へ移住したが南国へ出戻りした人を指す。
その日の夕食に、シマテは顔を出さなかった。夫婦の寝室にも、シマテの姿はなかった。
「足をなくして、どうかしちまったんだよ」と吐き捨てるモアレに、何も言えず、ニカはパラパラに炊かれた米と、豆と鶏肉が甘辛く煮込まれたシチューを交互に食べた。食後に出てきた大粒に切られたパイナップルは一口では飲み込みきれないほどで、食卓に並んだものはすべて、シマテとモカレが長旅で買い集めてきたものだった。
ニカの首は、やはり軽い鞭打ちになっていた。寝転がると常に後ろから首元をぎゅっと押されているように苦しい。立つか座っているほうが楽だったから「まだ寝ていなくていいのかい」と言うモアレに、首の調子を説明して、夕食を食べ終えた食器を水場へ持っていき、家族の分の皿を洗った。
すると、水場の向かい側の、少し坂になった小道をこつ、こつ、と音を立てて何かが近づいてくるのが分かった。
ニカは皿を置き、音のする方をじっと見つめた。暗くなるとほとんどの住人は、ランプを持って出歩く。街灯が少ない道もたくさんあるし、夜行性の動物──蛇や人を恐れないフクロウなど──が襲ってくることもあるから、用心のためにも灯りは必須だった。
暗闇に慣れてきたニカの目は、こつ、こつという音の主がシマテだと分かった。同時に、見覚えのない男が、シマテの腕を肩に回し、隣を歩いているのも見えた。
二人はゆっくり近づいてきて、ニカたちが暮らすバンブーハウスの前に到着した。ニカが皿を洗っていた水場は、ちょうど家の裏にあるから玄関からは見えない。ニカは裏口からキッチンを通ってリビングに戻り、息を切らして言った。首の痛みを一瞬、忘れていた。
「父さんが帰ってきたみたい」
「え?」
「誰かと一緒だった。さっき、街中から歩いてくるのが見えた」
モカレがリビングのソファに身を投げ出していたのを、ゆっくり起こそうとしたとき、玄関から声がした。
「ごめんください」
声はやわらかく、どちらかというと弱々しそうな男の声だ。
眉をしかめたモアレを横目に、モカレは玄関口へ歩み寄った。
「どちらさま?」
「おたくの旦那が、うちの近くの川で倒れていたんで、連れてきました。扉を開けてくれませんか」
モカレが竹の葉でできたのれんをまくると、確かにシマテと、その横に短く切り揃えた黒髪と、シマテに負けず劣らずの肩幅を持つ男が立っていた。シマテはうなだれて、ニカたちの方に顔は見えない。
「確かにうちの人だ、すみませんね」
モカレは男からシマテの腕を受け取り、引きずりながらソファへ運んだ。シマテは筋力が抜き取られたがごとく、両腕も残った右足もだらん、と力なくぶら下げたまま、意思のない人形のようだった。
「いったいどこに行ってたんだい」
呆れたモアレの言葉にも、シマテは反応しない。
「すみません、迷惑をかけて」
「いいんですよ、気がついてよかった。溺れかけていたものですから」
男は、23集落の北側に住んでいる。隣の22集落との境目近くで、ここからそう遠くない。家の前を小川が流れているが、そこで大きな水飛沫の音がして、夜に似つかわしくない騒がしさを感じて外を見れば、小川にうつ伏せに倒れているシマテを見つけたという。
「足が悪いみたいだったから、もしかしたら道を踏み外して川の中に落ちてしまったのかもしれません」
モカレはうつむいたシマテの体を、蒸した綿の布で拭いた。
「ちょっと体を洗ってくるね」
そう言うと、モカレはシマテの腕を肩に回し、「手伝いましょうか」と言う男の申し出を断り、ゆっくり水場へ入っていった。
リビングに残されたニカとモアレと男は、しばらく黙ったまま、お互い誰が何を言い出すか探り合っていたが、「それじゃあ」と言って、男はのれんをくぐろうとした。
「待ちな」
モアレは、男の背中に向かって低い声で呼び止めた。
「あんた、23番集落に住んでいるって言ったね」
「はい」
「わたしは昔からあの辺もよく知っているけどね、見ない顔だ」
「最近は隣の集落から引っ越してくる人もいますよ」
「あんたもそうなのかい」
モアレの問いかけに、男は答えない。ただ、彼の瞳は、深い緑色をしている。ちょうど、ニカのそれにもよく似た、深海のような。
男は、モアレの問いかけには答えず、姿勢を正した。
「暗い中で見たので、はっきりとは分かりませんが」
男の後ろで、夜風が吹き込み、のれんとろうそくの火が揺れた。いくつかは、風で吹き消された。
「あの足をなんとかしないと、命が危ないと思います」
最初の弱々しかった声色のままだが、なぜか確信めいていた。それは、両手のこぶしが血管が浮き出そうなほど強く握られていたから、ニカにも分かった。
「どうして、そんなこと」
ニカの台詞を引き取るように、男はこう続けた。
「僕は医者です。エピラのね」
(つづく)
余談
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今回は、仲のいい父と娘とそうでない父と娘は何が違うのか、という話です。
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