Pak Bonoのこと
今回は2月に亡くなられたダランのキ・ブラシウス・スボノ Ki Blacius Subonoについて(以下Pak Bono)、長々と気持ちを綴りたいと思う。もうすぐ半年が経とうとしているが、自分の気持ちの整理をするために、みなさんと思い出をシェアしたい。
Pak Bonoとわたしは頻繁にお会いできていたかといえばそうではないが、彼のワヤンやガムランにもたらした影響力が大きすぎて、そしてお会いした時のお人柄が力強くもとても素敵でとにかく印象深くて、大好きな人でした。多分、これからも折に触れてじんわりと思い出すと思う。
では、少し彼がどのようなお方だったのかを紹介したい。
Pak Bonoは1954年2月に中部ジャワ州クラテンKlaten県のダラン一家に生まれた。彼はダランであり、そしてガムランを使った新曲の作曲に類まれなる才能を持った人であった。彼が作った楽曲たちは、もともとあったガムランの伝統的な楽曲に加えて、ひじょうに重要なレパートリーとなっている。彼の弟であるPak Dedek Wahyudiも作曲家として有名である。
例えば、日本のガムランを演奏しているみなさんにもおなじみのアヤ・ホンAyak Hongは、今やワヤンの幕開けの新しいスタンダードになっていると言っても過言ではないくらい、頻繁に演奏される。歌のパートが男声と女声の二重唱になっているのも、作られた頃は画期的だったのではないかと考えられるが(というのは、ガムランの古典曲は基本的に歌を二重唱にはしない)、それがとても印象的な曲である。次の動画がこの曲の録音なので、よかったら聴いてみてほしい。
上に、Pak Bonoが現在のワヤンやガムランにもたらした影響力は大きすぎると書いたが、それは次のような理由がある。1970年代以降、ソロの芸術大学を中心とした芸術家たちのコミュニティを中心に、伝統芸能を保存、継承しながらも、新しい演出を模索するという活動が行われた。その活動を中心となって牽引した1人がPak Bonoのだったのである。彼はアヤ・ホンに代表されるような新しい楽曲を創作し、相当数世に送り出した。そしてそれらはガムランの楽曲の重要なレパートリーになっている。
最近、ワヤンの会場に行くと、「芸術家はクリエイティブであれ」と演説で言われるのをよく聞くけれど、そういう芸術家のクリエイティビティを奨励する雰囲気を最初に創った人物の1人が、pak Bonoだったのではないか。(もちろんその前の時代にKi Narto Sabdoがいたことも忘れてはいけないけれども。)
ワヤンは伝統芸能に位置付けられていてる一方で、日々新しい演出や楽曲が生み出され、刻々と変化している。私はいわゆる「伝統的」といわれる上演スタイルも大好きだが、同時に、それにとどまらない新しい挑戦的な演出もとても興味深いと考えている。そのような新しい演出が盛んに産み出され、変化してゆくこともワヤンの魅力であると考えている。
わたしは自分が初めてワヤンと出会った時、最初にふれたのが「伝統的」なワヤンの上演で伴奏音楽として使われるガムランのスタイルだった。それがとても気に入ってしまったので、ワヤンの音楽を研究することが、ワヤンを研究する最初の動機になった。そのため、少し前まで古典曲とは大きく雰囲気の異なる新しい演出の良さが正直あまりよくわからなかった。しかし、修士論文を書くために、幸運にも初期の芸術大学に在籍していたダランたち(その1人がPak Bonoだった)とじっくりお話しできる機会を得て、現在のダランの多くが、「ワヤンは時代に合わせて変化してゆくもの」と考えているということを知った。そして彼らが初期の芸術大学で新しい演出を生み出すため奮闘していたことを知った時、新しい演出も興味深いものであるということを徐々に理解することができるようになった。たいていの場合新しい演出の裏には、ダランの意図であったり、戦略が隠れていて、その話をダランたちに直接聞くことがわたしはとても楽しい。
ダランにも音楽や人形操作をはじめ、さまざまなクリエイティビティが重要であるということを、わたしに最初に教えてくださったのが、Pak Bonoだった。生前2回個人的にご自宅に伺って、インタビューをすることができたが、本当に貴重な時間だったと心から思う。しかし、勉強すればするほど、まだまだ聞きたいことは湧いてくるばかりなので、ただただ寂しい。
Pak Bonoはとにかく明るくて、パワフルな方だった。ソロ周辺でよく上演されているワヤン・クリ・プルウォwayang kulit purwaはもちろんのこと、キリスト教のワヤンであるワヤン・ワフユwayang wahyuを上演したり、ご自身の楽団とともにワヤンの上演や自身が作曲された楽曲の演奏をしたりするなど、ひじょうに精力的にされていた。
Pak Bonoはソロの芸術大学のダラン科の先生をされていた。わたしが1回目に留学した時は、すでに定年退職間近という時で、半年間だけ授業を受けることができたが、それは本当に幸運だったと思う。
こちらの人は、力強いとか、時には厳しいなんていうニュアンスで"keras"という言葉を使ったりするののだが、こちらの人に言わせると、pak Bonoはkerasな人だそうだ。わたしはその当時、pak Bonoが担当していたスルック・ドドガン・クプラアンsuluk dodogan keperakanという、ダランが歌う歌と、ダランがガムランに楽曲の開始や停止を知らせる合図を勉強する科目の授業に出ていた。あの授業は、当時留学を始めたてで事情がよくわかっていなかったこともあり、とにかく学生が多くて、みんなが合図を出す練習をするために色々な音を出すため、教室がガヤガヤしていて、ただただカオスだと思っていた記憶がある。(もちろん楽しかったけれども)。しかし、そのカオスさにも負けない声量と気迫と、そして弾けるような笑顔で学生を指導していたpak Bonoのお姿は一生忘れないと思う。そういう姿をkerasというのかはわからないが、すごくかっこいいと思いながら見ていた。
退職されてからしばらく経って、わたしが帰宅しようとしていた時に、たまたまpak Bonoがバイクで大学を通りがかったことがあった。遠くからわたしの姿を見つけて、わざわざ挨拶しに近寄ってきてくださったことがある。その時は、にこにしながら「おう、元気かい!?」と声をかけてくださって、ただされるがままにがっちり握手しただけだったのだけれど、それが忘れられない。握手する時、潰されちゃうんじゃないかとい思うくらい、いつもがっちりと握手してくださったのだが、けれどそれがたまらなく好きだった。それだけで、なんだか元気が出る気がした。
そんな優しいお方だったので、彼を慕う人も多かった。先日、100日供養がソロの芸術大学で行われたのだが、ひじょうにあたたかい雰囲気の会だった。
入り口にはPak Bonoの写真やワヤンが展示されていて、ちょっとしたギャラリーのようになっていた。写真の中で微笑むPak Bonoを見ただけで、思わず泣いた。(会場に入っただけなのに…)いい写真をたくさん集めて、こうして丁寧に飾って…このギャラリーを誰かが作ったということだけで、そこに誰かのあたたかい気持ちがあるということ、それだけで涙が出た。
1000日供養では、彼の作品をいくつか上演した。最後にキ・チャヒヨ・クンタディKi Cahyo KuntadiがPak Bonoの楽曲を使った約2時間のワヤンを上演した。これは過去にワヤン・オランwayang orangとして上演されたことがある作品だそうだが、それを今回ワヤンにして上演したことはかなり挑戦的なことだったと思う。全編Pak Bonoの楽曲を使用していて、そのため古典曲はほとんどなく、テンポも速く切り替わりの難しい技巧的な曲ばかりだったが、ダランと演奏家の息がぴったり合った名演だった。まさに、初期の芸術大学で生まれた新しい上演様式であるパクリラン・パダット(凝縮版ワヤン)をまさに体現した上演だったのではないか。
かっこいいので観て…↓
演奏をしながら涙ぐむみなさんを見て、思わず自分も泣いてしまった。たくさんの人に愛された人だったのだということを強く感じた。終演後、演奏家のみなさんがPak Bonoの写真とともに写真撮影をされた時、会場には、悲しみと、あたたかさや達成感、Pak Bonoへの誇りみたいなものが入り混じったなんともいえない雰囲気が流れているように感じた。そしてそれをわたしは心から尊い雰囲気だと感じた。
ジャワの人は、Pak Bonoはスマルみたいな人と言ったりするのだけれど、本当にそのイメージにぴったりな人だった。彼が亡くなった時、スマルの衣装をつけていたようなのだが(イベントでスマル役をしていて、そこで倒れてそのまま亡くなったそうだ)すごい偶然だと思ったりもした。けれども、そういう偶然を引き寄せてしまうのも、ダランの不思議な力だったりするのかもしれない。
不思議な力といえば、最近こちらの人に、ダランは自分の死期がなんとなくわかることがあるらしいと聞いた。本当のところはわからないが、実は、個人的にこれにも思い当たる節がある。
亡くなる1週間前が、Pak Bonoのお誕生日で、お祝いで家でワヤンをするから、よかったら観に来てねとご本人から連絡をいただいた。けれど、その日は溜まりつつあった記録をつけてしまいたくて(でも思えばそれがPak Bonoに会える最後のチャンスだった)、なんとなく行くのをやめてしまった。でも今思うのは、もしかしたらこの時もう先が長くないことがPak Bonoくらいのクラスの人だったらわかってたのかもな、また次の機会になんて、ないってわかっていたからわざわざ連絡くださったのかな、ということ。記録なんて違う日にすればよかったのに、無理してでも行けばよかったのに。これだけは、どうしようもないことだけれど、後悔が尽きない。今もふと考えて胸がきゅっとなる。
Pak Bonoはお誕生日の1週間後にこの世を去った。
それは本当に突然で、考えもしていなかったから、その日の朝ニュースで訃報を知った時は頭が真っ白になった。その2週間前にワヤンの会場でお会いした時は、そんなことは全然感じられなかったから。同僚の先生と楽しそうにワヤンを見物していて、いつものようにがっちり握手をされて、いつものように笑っていた。あの日が、私がPak Bonoに直接お会いできた最後の日になってしまった。
また大好きな人が突然いなくなってしまった。この数ヶ月、全然気持ちの整理がつかなくて、これを書くことで整理できたかどうかはわからないけれど(書きながら今も泣いているので)、こうして文章にできたことはひとまずよかったのだろうか。Pak Bonoには、あらためて哀悼の意を表します。
ダランはかっこよくて、力強く生きている人たちばかりだけれど、実は思っているよりずっと儚いのかもしれない。けれど、Pak Bonoが旅立ってから数ヶ月の間も、何度となく彼の楽曲をあちこちで聴いた。そういう意味では、姿はなくなってしまっても、Pak Bonoはこれからも生き続けられるし、そういうあり方ができることは、Seniman(芸術家)ならではだよなあ、それはなんと素晴らしいことかと、わたしは常々考えている。今日もきっとどこかのワヤンの幕開けで、Ayak Hongが響くだろう。
わたしがこれを書くことで供養になるかはわからないが、Pak Bonoには感謝の気持ちが尽きない。寂しいです。ありがとうございました。これからも大好きです。
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