「小児性愛者」とか「社会的責任」とか「性的嗜好」とか「法治国家」とかの話。
もう散々Twitterで喧々諤々議論をされているので今更言うべきではないが私の個人的な見解を備忘録的にまとめることにする。
「小児性愛者」について
そも「小児性愛者」とは何ぞや、と。
ここでは細かい学術的基準や、医学的基準を一切排し、端的に表そう。
「小児性愛者」とは即ち、「法律で守られるべき対象である児童及び青少年に著しく性的欲求を覚える者」とする。
日本の福祉法や買春・ポルノ法では児童を「満18歳に満たない者」としている。
そして学校教育法では「初等教育を受けている者(即ち6~12歳)」としている。
今回往々にして話題になっているのはおそらく後者の方であろう。
だがそもそも、何故「小児性愛者」は糾弾されるのか、と言うところに着眼してほしい。
法律的な見解では、「小児性愛者」と「17歳の少年、少女に性的興奮を覚える者」の違いは大きくはない。
どちらも等しく、行為に走れば「犯罪者」である。
現在我が国日本において、すべての都道府県が「未婚の18歳未満の男女との淫行」を禁じている。これは感情とは無関係な法律の話である。
国連における「児童の権利に関する条約」でも児童とは「18歳未満の者」としている。
感情を抜きに語れば、6歳の小児との淫行も、17歳の児童との淫行も極論、同じなのだ。
「小児性愛者」が忌避される理由
ではなぜ「小児性愛者」がやり玉に挙げられるのか、至極簡単である。
小児者、即ち「未就学児及び初等教育を受けている者」は一般的に成人の力づくにおける行為を拒絶できないからである。
極端な話、17歳に性交を働くのと、6歳に性交を働くのでは後者の方が圧倒的に「簡単」だからである。
無論、「簡単」であることと「積極的に行える」というのは大きく隔たりがある。
しかしながら、我々は等しく過ちを犯す生き物であるので、「簡単」であるその行為を行わない保障は、残念ながら存在しない。
我々日本に住む成人は等しく、社会規範に則り生活をする義務がある。
これは感情論でもなければ理想論でもなく、そうしないと「法律」により罰せられるというだけの話だ。
「小児性愛者」がやり玉に挙げられるのは、自らの欲求のために社会規範を犯すのが「極めて簡単な人種」だからに他ならない。
「法治国家」と「社会的責任」
「社会的責任」という言葉をこの度の議論の中で何度も耳にしただろう。だが多くの人間は、深く考えずに使用しているように思われる。
我々は日本国の国民として「社会を守り育て形成する」義務を伴っている。
三大義務などがその好例であると言えよう。
この「社会的責任」は何も、大人としてちゃんとした態度を取る、と言う事ではない。わかりやすく訳せば「法律を遵守せよ」と言う事である。
改めて言うが「小児性愛」は行為を働いた瞬間「犯罪」であり「社会的責任」を放棄することと同義である。
ここで前項の「簡単」という話に帰結するわけだが、想像してほしい。
「小児性愛者」を主張することは即ち
「私は簡単に行える犯罪を働くことに性的興奮を覚えます。ですが犯罪を犯すことはないです。信じてください」
と声高に主張しているわけである。
友人同士ならば冗談で済むが、今回の一件は公開アカウントでそれがなされている。
聡明な方なら、この状況が如何に恐ろしいかわかるだろうか。銃弾が込められた拳銃を向けられ、引き金は引かないと確約されて信じられる人間はいないだろう。
しかし同時に、日本には「思想・言論の自由」が存在する。
何を述べ、何を考えようと問題ないという素晴らしき憲法だ。
無論、殺害予告などで逮捕される事件もある。だがあれは「威力業務妨害」ないしは「強要・脅迫罪」であり、発言したことが罪であるわけでは無い。
さて、お気づきだろう。
「小児性愛者」を主張すること、ないし「小児を性的に消費すること」を発言することは「何の罪にも問われない」。
そして法治国家である以上、無実の人間を裁くことは決して赦されない。
これは法治国家の根幹であり、何者もないがしろにしてはいけない。例えどんな悪逆非道であろうと、どれほどの異常者であろうと「法律」を犯していない者は日本国において「健全な成人」として扱われるのである。
「性的指向」・「性的嗜好」
さて、話は変わるがLGBTQと言うものがある。更に言うならばLGBTTQQIAAPとなるわけだがそれは割愛する。
これは「性的指向」である。
翻って、「小児性愛」や「サディズム」「マゾヒズム」などが該当するものは「性的嗜好」である。ややこしい、実にややこしい。
同じ音の漢字をあてた過去の人物は深く反省してほしい。
さて話はそれたが、「性的指向」とは即ち、「それのみを愛する」と言うものである。「ゲイだが女性も抱ける」という場合があるが、本来の意味からすればそこに愛はなく、ただの性的現象が起きているに過ぎない。
一方「性的嗜好」は違う。これは「それを特に愛する」という事である。
「性的嗜好」はsexual preferenceと言い、直訳すれば「性の好み」である。
「好み」であるという点を忘れないでほしい。
一方でアメリカなどでは「性的倒錯」と呼び、障害として扱われている。日本でもこの言葉が定着すればよいのだが、一度人口に膾炙した言葉は得てして取り除きがたい。
さてこの「性的指向」と「性的嗜好・倒錯」の本質的な違いは何か。
非常に難しいが、「他の物を愛せない」のが「性的指向」であり「他の物で満足できない」のが「性的嗜好」であると私は位置づける。
さてここで侃々諤々議論を戦わせていた諸兄はこう言うだろう。
「他の物で満足できないのは怠慢であり、諦めて満足するべきだ」と。
それが出来ないから「倒錯」なのだ。
これははっきりと、感情や倫理の問題ではない。脳の問題である。
どれだけ感情が働こうと、倫理が働こうと、生命としての機構がそうなってしまっているのである。これは事実として受け入れるしかない。
しかしながら、先ほども言ったように日本において「思想、信条は罪にならない」という前提がある。
なので、どれだけ捩じくれ曲がった「性的嗜好」であろうと、行為を犯さないうちは「健全な成人」でしかないのだ。
「性的嗜好者」に対し他の物で満足しろと言うのは即ち
「砂と泥を食べて飢えをしのげ」と言っているのと同義である。
そんな人物の前によく焼けたステーキがあったら……どうなるかは言うまでもないだろう。
「性的嗜好者」を抑えつけるというのは、社会に、「健全な成人を犯罪者にする」危険を内包することを推進する、と言う事に他ならない。
社会的責任、性的嗜好、法律、発言の自由
さて長々と述べたがとどのつまり、日本においては次の事が言える。
1、「性的嗜好」に関わらず18歳未満の児童に淫行をする事は犯罪である。
2、「小児性愛」はとりわけ簡単に犯せる罪である。
3、「性的嗜好」を詳らかにすることは犯罪ではない。
4、「法律」を犯していないものを裁くことは赦されない。
5、「法律」を犯していない人間は、守られる権利を有する。
6、「性的嗜好」は個人の努力では改善しない。
では「小児性愛者」は「犯罪者」ないし「犯罪者予備軍として拘束、罰則を科されるべき者」であろうか。もちろん、NOである。日本において、それは赦されていない。
同様に、「小児性愛」を公言することはまかり通るだろうか。もちろん、YESである。日本においては「思想・信条の自由」は保障されている。
しかし考えて欲しい。先に述べたように「小児性愛者」は
「極めて簡単な犯罪を犯すことに性的興奮を覚える者」なのである。
それはれっきとした「異常」であり「疾患」であるのだ。決して、健全ではない。間違っても「ロリコン」だと笑える勲章ではないのだ。
無論、健全では無いからと言って排されるわけでは無い。
勘違いしないで頂きたいが、現在日本において「性的嗜好」を理由に誰かを罰すること、誰かの権利を迫害することは、決して赦されない。
今現在、彼ら「小児性愛者」を批難し、糾弾する方々よ。
貴方は何を根拠に彼らを糾弾するのか?法治国家において「法律」と「憲法」が守る彼らを、何故糾弾できるのか?
貴方の批難には何の根拠もなく、貴方の言葉には何の正当性もない事を、どうか理解してほしい。
しかし、それは日本が「法律」と「憲法」によってそうなっているからに過ぎない。
そして、「法律」も「憲法」も大きな民意があれば変わってしまう。
「小児性愛者」の皆様に問いたい。
その発言は本当に公開する必要があるだろうか?その言葉は、本当に述べるべきだろうか?貴方が法律を犯さないとなぜ誓えるのか?
「性的嗜好」とは本当に、つまびらかにする必要があるだろうか?同好だけでひっそりと生きることはできないだろうか?
貴方の権利は「法律」と「憲法」と言うものが担保しているだけであって、永劫のモノではない。
貴方が近い将来「性的嗜好」が理由で罪に問われないために、今一度自身の発言を振り返ってほしい。
今回の件、発端は「Twitterの公開アカウント」の投稿だ。私は残念ながら、この人物を擁護することはできない。しかし同様に、彼の発言を糾弾することもできない。
だから、「一性的倒錯者」としてこう願う。
「性的倒錯者」が苦痛を受けず、法律によって守られ、誰の権利を侵害することも無くその欲求を全うし、誰もそれを糾弾しない社会が実現することを。
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