
今、生きる日々が奇跡の理由。
度重なる手術
2019年8月
右膝後十字靭帯断裂
2020年9月
右膝外側半月板断裂
2020年10月 ope
右膝後十字靭帯再建術
右膝外側半月板縫合術
2021年5月
右膝外側半月板断裂
2022年1月 ope
右膝外側半月板切除術
2022年8月
右手舟状骨骨折
2022年12月 ope
右膝外側半月板切除術
右手舟状骨骨折(偽関節)に対する腸骨移植術
怪我の名称としては聞いたことがある方もいるかもしれませんが、私の場合は損傷の仕方が異常でした。
今回は、私のこれまでの膝の怪我ついて、全てをお話しします。
怪我の詳細
最初の受傷部位の後十字靭帯は、前十字靭帯と比べて3倍の太さと強度があり、余程大きな力が加わらないと損傷しません。
損傷条件は、膝を90°に曲げたまま膝前面を強く打ちつけること。よく交通事故で受傷する怪我のため、別名:ダッシュボード損傷 とも言われています。限られたシーンため、サッカー中の怪我として発生頻度は低いですが、膝を地面に強く打ちつけることで損傷するケースはあります。
しかし、私の場合は、フロントダイブをしてボールをキャッチしたとき、ブロックのために折り曲げてた右膝に相手選手の全身が衝突してしまい、損傷しました。
私の後十字靭帯は、完全に断裂してしまったことにより、血流も完全に止まったため、身体が『この靭帯は必要ないもの』と判断し、溶かしてしまったので、手術で膝を開いたとき後十字靭帯は無くなっていました。
そのため、4ヶ月後にはプレーができるまでに痛みはやわらぎましたが、膝は緩くグラッグラで、日常の簡単な動作で膝崩れを繰り返してしまい、常に装具やテーピングが必要な膝は、のちの半月板損傷に影響を及ぼしました。

半月板は、三日月のような形で、膝の外側と内側に1枚ずつあり、膝関節でクッションの役割を果たしています。
私の場合、元々1枚の半月板が割れて2枚に分かれ、一方がひっくり返って、もう一方に重なっていました。さらに、2枚になった半月板は重なったまま膝関節に挟まって膝が曲げ伸ばしできなくなるロッキング状態を起こしていました。
病院に行くとドクターに即手術と宣告され、私が3ヶ月後のインカレが終わるまで遅らせてほしいと話すと、
「すぐに手術しなければ最悪歩けなくなるかもしれない」
と返されてしまい、初めて私は自分の身体はとっくに限界を超えてしまっていて、もうサッカーレベルの次元ではないことをようやく理解しました。
それでも、最短の手術日までの1ヶ月間にある、関カレ4試合と皇后杯関東予選2試合の計6試合に出場する許可を出していただき、チーム、大学のリハビリ施設、病院、たくさんの方々に支えられて、手術3日前までピッチに立つことができました。
正真正銘のゴールを守るだけのGKでしたが、結果としてインカレ出場と皇后杯本戦出場を決めて、手術を迎えました。

1度目の手術
8:30から手術が始まり、終わったのは18:00。
朝から晩まで1日がかりの大手術でした。
のちに担当の理学療法士さんから聞いた話では、珍しい症例のため、他の医師や理学療法士も見学に訪れていたそうです。
後十字靭帯再建術は、膝の内視鏡手術の中でも最高難易度であり、そもそも執刀できる医師が限られていることと、基本は保存療法のため、手術できる医師が生涯のうち1件するかしないかという手術でした。
外側半月板縫合術は、もう一度サッカーができるように、半月板を可能な限り残す必要がありましたが、損傷が激しく原型をとどめていなかったため、10針以上を長時間かけて縫合し、少しでも元の形に近づくように全力を尽くしてくださいました。
私の主治医は、サッカー男子日本代表(A代表)のドクターを長年務めており、心から信頼できるドクターです。この2つの非常に難しい手術も、一度も休憩することなく、完璧に成功してくださいました。
本当に命の恩人です。
しかし、それでも現実は厳しいものでした。

地獄の入院生活と絶望
術後、意識障害が出て昏迷状態になってしまい、たまに目を覚ましても眩暈と嘔吐が来て、また目の前が真っ暗になって、気を失うように眠ってしまい、当時の記憶はほぼありません。
それから4日が経過し、やっと意識障害が改善されると、自分の意思で起きていられるようになった反面、そこから初めて実感する激痛との戦いが始まりました。
内出血がひどく、脚全体がパンパンに腫れ上がり、ナイフで切られているような痛みと、火傷を負っているような熱さで、ずっと泣いていました。というより、我慢したくても勝手に涙が流れてきました。
後にも先にも間違いなく地獄の一週間でした。

また、原因不明に、顔の片側がパンパンに腫れてしまい、話しづらさと飲み込みにくさに加えて、熱も出て体調は優れず、点滴で栄養も入れていましたが、結局手術から1週間も経たずに6kg痩せてしまいました。

入院生活は8週間(約2ヶ月)に渡りました。
そのほとんどは37度以上の熱が出てて、酷いときは38度後半まで上がりました。
焦る気持ちとは裏腹に、リハビリできない日々が続き、たまに熱が下がっても、目眩がしてボーッとするし、音は頭に響くし、光も目に刺さり、常にパーカーのフードを被って生活していました。
時だけが過ぎ、膝は一向によくならないし、体調も悪くて、完全に戦意喪失していた私はドクターに、
「またサッカーできるようになりますか?」
と聞きました。
この日常にどんなに小さくても十分だから、希望を持ちたくて、前を向けるような答えを待ってた私への返答は、
「トップレベルでサッカーをするのは難しいかもしれない。」
でした。
あまりにも残酷な結末に、消灯後の真っ暗な病室で一人で枯れるほど泣きました。
ちょうど新型コロナウイルスが蔓延してた時期で、入院中は外に一歩も出られず、面会も禁止でしたが、この時の私には人と会って話せる余裕もなかったので、2ヶ月間サッカーの世界から完全に離れて、病院という狭い世界で、何も変わらない毎日を繰り返すことで精一杯でした。
1週目 荷重× 車椅子
2-3週目 荷重× 松葉杖↓
4週目 1/4荷重
5週目 1/3荷重
6週目 1/2荷重
7週目 2/3荷重
8週目 全荷重

希望と再び絶望。そして学び。
術後3ヶ月22日目には、ゆっくりと走れるようになりました。それから、少しずつ少しずつ、サッカー選手の前に、まずは普通の20歳に戻るために、リハビリは進んでいました。
しかし、リハビリ6ヶ月目。それまで感じてた痛みとは違った嫌な痛みが膝にありました。
MRIの結果は、"外側半月板損傷"
手術した箇所は、奇跡的に治癒が進みの復帰の兆しが見えてきたというのに、手術とは反対の箇所が損傷していました。
当時はリハビリ中で、明らかな原因もないため、手術部位のダメージが大きくて庇っているうちに、損傷してしまったと考えられています。
見えない復帰を目指して、もう一度サッカー選手になるために、術後から今日までの日々を繋ぎ止めていた、ほそいほそい心の糸がプツリと切れました。
みんながサッカーをしているグラウンドは一切見ず、一言も話さず、一回でも多くのリハビリをしようと毎日毎日頑張りました。
無意識で涙が溢れてしまったときも必死に隠して、現実を受け止めたくなくて、現実から逃げたくて。
それでも"努力は裏切らない"の言葉に裏切られた瞬間でした。
だけど、努力しても復帰できないとなった日から、私は初めて、リハビリ中のできる限りの時間、みんなの練習に目を向け、外から声をかけるようになりました。
ボールも蹴れない、ゴールも守れない、ピッチに立てない今の私が、今チームにできること、すべきことに、やっと気づきました。
絶望だったからこそ、大切なことを学びました。
そして、1度目の手術から10ヶ月半後、右膝のガチガチのテーピングは相変わらずで、右足のキックに制限もあって、ビルドアップもゴールキックもできなくて、4ヶ月だけの一時復帰でしたが、復帰未定の怪我から復帰を果たすことができました。

2度目の手術
インカレを第3位で終えた1週間後、ボールを蹴るとバキッと音がする右膝から外側半月板を取り除きました。
残せた部分も、もう縫える状態ではなかったため、米俵のように束ねて括ったと説明を受けました。
そして、ドクターから
「これからもサッカーを続けるなら、左利きになる必要があるよ。」
と言われました。
サッカー選手として、とても残酷なことを言われたはずなのに、1度目の宣告と違って、復帰できる保証はあることに安堵の表情を浮かべていた自分がいました。
でも、マカロニえんぴつの当時新発売された"ハッピーエンドへの期待は。"をシャワー室で大音量に流して狂うように聴いていました。
♪
残酷だったな、人生は、思っていたより。
いま君に会って、思い切り泣いてみたい。



2度目の復帰
2度目の手術からは、最低でも全治6ヶ月と言われていましたが、右足のキックの制限はあるものの、インステップキックも蹴れるようになり、最終的には5ヶ月で復帰することができました。
今回は復帰できる保障もあったので、とにかく1日でも早く復帰するためにできることは何でもしました。
これが良かったのかは分かりませんが、当時週14回のリハビリをしました。部活動、病院のリハビリテーション、大学のリハビリ施設、大学病院のトレーニング施設。
教育実習期間は、早朝に埼玉の実家から東京の高校に行き、実習を17時ピッタリに終えると茨城の筑波大学に移動して、19時半〜21時半は部活動でリハビリをして、また埼玉の実家に帰る生活をしました。授業準備等もあり平日の睡眠時間は3時間でした。
精神的にも身体的にも限界ギリギリでしたが、それに耐えられたのも
『誕生日の6/29までに復帰する(術後5ヶ月半)』
という、ブレない目標であり、責任でした。

そして、今
もう私には、テーピングを外して、自分の足だけでサッカーができる日は一生来ません。
大学4年間、ボールが蹴れなかった過去も変えられません。
利き足の右足だけを蹴り続けていれば、日に日に選手生命が削られていくのも定められた運命です。
なでしこリーグ1部の優勝争いをするクラブで、なでしこリーグNo.1のビルドアップで魅せるサッカーをするクラブで、一番下手な私。
正直、自分の弱さと向き合うのは、とても辛いです。
選手もスタッフも上手いし優しいし心があって、非の打ち所がない素晴らしいクラブだからこそ余計に刺さる劣等感。
けれど、それもサッカー選手に戻れていなかったら感じられなかったことで、私はまだサッカー選手としてプレーできるチャンスを与えてもらっています。
当たり前の儚さを知りつつ、今こうしてサッカー選手として生きていられること自体が奇跡で、本当に本当に幸せなことです。
それに、こんなにもたくさん応援してくださる方々がいて、期待してくださる方々がいるのは、なかなか23歳で経験できないことで、本当に本当に有難いです。
夢を叶えるために、レギュラーには一番険しい道のりだけど一番成長できる場所と考えて、自分自身で選択した名古屋への移籍。
これから右足を失った4年間を必死に取り戻し、いつ結果につながるか分からないけれど謙虚に自分と闘い続けて、いつかクラブや応援してくださる方々の力になれるように、頑張ります。
そして、同じ境遇で闘う選手に、夢を与えられる存在になりたいです。

最後まで御一読いただきありがとうございました。
長々書いてしまいましたが、
想いは全部、サッカーにぶつけます。
あと少し、もう少しだけ、待っててください。
清村珠幸
いいなと思ったら応援しよう!
