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私がご機嫌斜めになる理由。コンパッションからの四面楚歌。
私は怒る。
どうしてこんなに怒っているのか?
そのイラっとポイントがわかってきた。
それは『私を一番大切に扱ってもらってない』と思うときだ。
これは幼少期に遡り、入院していた妹のところに母親が看病に行っているときに
『私のお母さん。私だけのお母さんだったのに、どうして妹のところに行くの?私はお母さんが大好きなのに、どうしていつも私のそばにいてくれないの?どうして私が一番じゃないの?妹なんて嫌い。死んじゃえばいいのに。』
で、妹は亡くなってしまいました。(病気で)
これは、一旦『母親の愛は平等だった。妹より長く生きている私に、母親の愛がなかったわけでなく、母の愛は平等だった』ということで決着を迎える。
それが、再び起きたのは娘が生まれてからだった。
おそらく私を一番大事にしてくれていた夫が
育児ノイローゼ気味だった私に言った一言
『広美ちゃんは一人でも生きていけるけど、この子は一人じゃ生きていけない』
その時に、私は夫の一番ではなくなった。
という思い込みは
一生許さない。
という信念に代わる。
私の一番の地雷ポイントを踏んでしまったのである。
それから私は起業した。
夫の愛情よりも仕事で認められようと。
『私が一番愛されないと気が済まない』
ある意味自己愛性人格障害と紙一重のような内容だが、病的なレベルでない。
本当に大好きな人やずっと一緒にいた人が
ただ単に忙しくなったとか
他の人と楽しそうにしていたり
パートナーが私ではなくなった時に
私は激しく嫉妬するのだ。
そんなことは、相手はつゆしらず。どうしてそんなに怒っているのだろうと。
そうなると私の行動パターンは決まっていて、その人をぎゃふんと言わせてやるとか、復讐するとか、距離を置くとか、とにかく頑張る方向に行くのだ。
また出てきたよ・・・この感情が・・・
これが私の最もコアな部分であり、慈悲(コンパッション)を向けないといけない部分なのだ。
そんな出来事を反映して
師匠の講座 acceptance with コンパッション が4月末から始まるのと
クラブハウスでお世話になっていて華麗な心理療法をみせる石村郁夫先生の講座のお誘いと
ギーネイルヨガの有吉先生の『歌う瞑想』も『皆の幸せを願うシュローカ』に突入し
もうコンパッションから四面楚歌されている気持になってきた。
そんなわけで、コンパッション3講座を強化する4月~6月にする。(荒行)
慈悲の瞑想というのは、人に向ける前にまず自分。
自分が満たされてようやく他人。
自分に慈悲を向けることは、日本人の精神には受け入れがたいことかもしれないけれども
手が動かなくなって食事を以前よりも作れなくなった私に、嫌な顔一つしない優しい夫の愛情は過去の傷ひとつで測れるものではない。
コンパッションを自分に落とし込めた時に、伝えていく資格を得れるのではないかと思う。
その基準を小笠原和葉さんの講座にて学んだ。
私の中にいる愛されていないと思う小さな傷ついた子供。
私の中にいる夫以外の人に愛されて、仕事で認められればいいという不安の火消しをする自分。
私の中にいるこんな自分でいれば愛されるという人生戦略を持つ自分。
そしてマインドフルな真の自分。
どれも大切でいろんな人格を私たちは抱えながら生きているわけだけども
真の自分を守る他のキャラクターも認め尊重し、愛し、認め大切にすることが自分を大切にすることではないかと思う。
今日はちょっと重めの内容になってしまいましたが
3カ月後、私が『コンパッション』を語れるようになっているかを期待していただきたい。
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