日本での違和感 ―和―
私は幼い頃から海外(アメリカ)に住むことが夢だった。
理由は2つ。1つは、習っていた英語をもっと上達させて、ペラペラになって、英語を使って生きたいと思ったから。もう1つは、アメリカは「自由そう」「のびのび生きられそう」と思ってたから。
なぜそう思ったのか。それは日本に住んでて息苦しさを感じていたからだと今考えると思う。もちろん、日本にも誇るべきところはある。「おもてなしの心」「伝統文化」等々。私も和食は大好きだし、お寺や神社を訪れるのも好き。だけど、今も昔も、私の中でそれらは息苦しさには勝らない。
私は昔から、目立ちたがり屋なくせして、人とズレたことをするのが苦手だった。友達に、クラスの子に、異質な目で見られるのが怖かったから。嫌われるのが怖かったから。実際にそんなことされてなんかないのに。そういった思考になってしまうのは、きっと日本の「和」を基礎とした、集団主義的な教育とか、レールが敷かれたような進路に影響されているからだと、私は思う。
日本を表すときに用いられる「和」は、昔の日本名「大和」から来てるらしいが、現代ではその「和」という漢字が、日本的な文化とか生き方とかを象徴してると言える。「和」って調べると、のどかっていう意味はもちろん、仲良くするとか、争わない、合わせるとかいう意味も出てくる。
「合わせる」ってまさに日本的。「和」を大事にして、周りと合わせて、それとズレたことをして、成功したレア者は讃頌されるけど、そうでなければ馬鹿にされたり、見下されたりすることがよくある。それがただ夢を追いかけて行動していただけだとしても。私は、売れないバンドマンだって、勉強せずにスポーツに没頭して将来プロを目指している人だって、夢を持って行動を起こしてるんだから、とってもかっこいいと思う。
他にも、「周りと合っていない人」は異質な者として見られる。何か事情があって学校に行けない生徒、外人(外の人)と言われる外国人、奇抜な格好をしている人等々。日本は基本的に単一民族だから、潜在的にそういう思考が入ってしまっているのかもしれないけど、なんかもうここまで統一的だと、不登校になったら後ろめたさを感じるし、家庭の事情で海外から越してきた子どもも苦しいだろうし、自分の好きな服装だってしづらくなる。
「和」って、のどかとかおだやかとかいう意味を持っていながらも、裏にはこんな深い意味を抱えてたなんてびっくり。でもこれが日本の文化。日本らしいのかもしれない。
確かに、みんなに合わせて、ある程度決められたレールに乗ってる方が楽だよね。グローバル化が進む今、「多様性」っていう言葉が重要になってきてる。多様性を認めようって。だから、昔の日本みたいに、そこまでガチガチのレールは敷かれなくなったと思うし、SNSができてから自分のやりたいことをやろうとする人って沢山出てきたと思う。それはすっごく嬉しい。
けど私は、死ぬまでにやりたいこと沢山あるし、それにはかなり勇気や行動力が必要なこともあると思う。このブログもその一種。けど、絶対に後悔したくない。そういう私みたいな思考を持った人間には、日本で一生暮らしていくのは難しいのかもな。
海外で、誰も私のことを知らない土地で、のびのびと、自分らしく生きる方法を見つけたいって、少なくとも今の日本で暮らしていて感じてる。
日本は日本らしく「和」を保ちながらも、「多様性」を徐々に認めていけるような風潮が広まっていけばいいと思う。
ただ私は、「和」より「個」を大事にしたい。だから、多様性溢れる、「個」を大切にできるような国に、将来は住みたいな。